馬車はやがて黒い大きな岩のようなものに突き当ろうとして、その裾《すそ》をぐるりと廻り込んだ。見ると反対の側《がわ》にも同じ岩の破片とも云うべきものが不行儀に路傍《みちばた》を塞《ふさ》いでいた。台上《だいうえ》から飛び下りた御者《ぎょしゃ》はすぐ馬の口を取った。
一方には空を凌《しの》ぐほどの高い樹《き》が聳《そび》えていた。星月夜《ほしづきよ》の光に映る物凄《ものすご》い影から判断すると古松《こしょう》らしいその木と、突然一方に聞こえ出した奔湍《ほんたん》の音とが、久しく都会の中を出なかった津田の心に不時《ふじ》の一転化を与えた。彼は忘れた記憶を思い出した時のような気分になった。
「ああ世の中には、こんなものが存在していたのだっけ、どうして今までそれを忘れていたのだろう」
不幸にしてこの述懐は孤立のまま消滅する事を許されなかった。津田の頭にはすぐこれから会いに行く清子の姿が描き出された。彼は別れて以来一年近く経《た》つ今日《こんにち》まで、いまだこの女の記憶を失《な》くした覚《おぼえ》がなかった。こうして夜路《よみち》を馬車に揺られて行くのも、有体《ありてい》に云えば、その人の影を一図《いちず》に追《おっ》かけている所作《しょさ》に違《ちがい》なかった。御者は先刻《さっき》から時間の遅くなるのを恐れるごとく、止《よ》せばいいと思うのに、濫《みだ》りなる鞭《むち》を鳴らして、しきりに痩馬《やせうま》の尻《しり》を打った。失われた女の影を追う彼の心、その心を無遠慮に翻訳すれば、取りも直さず、この痩馬ではないか。では、彼の眼前に鼻から息を吹いている憐《あわ》れな動物が、彼自身で、それに手荒な鞭を加えるものは誰なのだろう。吉川夫人? いや、そう一概《いちがい》に断言する訳には行かなかった。ではやっぱり彼自身? この点で精確な解決をつける事を好まなかった津田は、問題をそこで投げながら、依然としてそれより先を考えずにはいられなかった。
「彼女に会うのは何のためだろう。永く彼女を記憶するため? 会わなくても今の自分は忘れずにいるではないか。では彼女を忘れるため? あるいはそうかも知れない。けれども会えば忘れられるだろうか。あるいはそうかも知れない。あるいはそうでないかも知れない。松の色と水の音、それは今全く忘れていた山と渓《たに》の存在を憶《おも》い出させた。全く忘れていない彼女、想像の眼先にちらちらする彼女、わざわざ東京から後《あと》を跟《つ》けて来た彼女、はどんな影響を彼の上に起すのだろう」
冷たい山間《やまあい》の空気と、その山を神秘的に黒くぼかす夜の色と、その夜の色の中に自分の存在を呑《の》み尽された津田とが一度に重なり合った時、彼は思わず恐れた。ぞっとした。
御者《ぎょしゃ》は馬の轡《くつわ》を取ったなり、白い泡《あわ》を岩角に吹き散らして鳴りながら流れる早瀬の上に架《か》け渡した橋の上をそろそろ通った。すると幾点の電灯がすぐ津田の眸《ひとみ》に映ったので、彼はたちまちもう来たなと思った。あるいはその光の一つが、今清子の姿を照らしているのかも知れないとさえ考えた。
「運命の宿火《しゅっか》だ。それを目標《めあて》に辿《たど》りつくよりほかに途《みち》はない」
詩に乏しい彼は固《もと》よりこんな言葉を口にする事を知らなかった。けれどもこう形容してしかるべき気分はあった。彼は首を手代の方へ延ばした。
「着いたようじゃないか。君の家《うち》はどれだい」
「へえ、もう一丁ほど奥になります」
ようやく馬車の通れるくらいな温泉《ゆ》の町は狭かった。おまけに不規則な故意《わざ》とらしい曲折を描いて、御者をして再び車台の上に鞭《むち》を鳴らす事を許さなかった。それでも宿へ着くまでに五六分しかかからなかった。山と谷がそれほど広いという意味で、町はそれほど狭かったのである。
宿は手代の云った通り森閑《しんかん》としていた。夜のためばかりでもなく、家の広いためばかりでもなく、全く客の少ないためとしか受け取れないほどの静かさのうちに、自分の室《へや》へ案内された彼は、好時季に邂逅《めぐりあわ》せてくれたこの偶然に感謝した。性質から云えばむしろ人中《ひとなか》を択《えら》ぶべきはずの彼には都合があった。彼は膳《ぜん》の向うに坐《すわ》っている下女に訊《き》いた。
「昼間もこの通りかい」
「へえ」
「何だかお客はどこにもいないようじゃないか」
下女は新館とか別館とか本館とかいう名前を挙げて、津田の不審を説明した。
「そんなに広いのか。案内を知らないものは迷児《まいご》にでもなりそうだね」
彼は清子のいる見当《けんとう》を確かめなければならなかった。けれども手代に露骨な質問がかけられなかった通り、下女にも卒直な尋ね方はできなかった。
「一人で来る人は少ないだろうね、こんな所へ」
「そうでもございません」
「だが男だろう、そりゃ。まさか女一人で逗留《とうりゅう》しているなんてえのはなかろう」
「一人いらっしゃいます、今」
「へえ、病気じゃないか。そんな人は」
「そうかも知れません」
「何という人だい」
受持が違うので下女は名前を知らなかった。
「若い人かね」
「ええ、若いお美くしい方です」
「そうか、ちょっと見せて貰《もら》いたいな」
「お湯にいらっしゃる時、この室《へや》の横をお通りになりますから、御覧になりたければ、いつでも――」
「拝見できるのか、そいつはありがたい」
津田は女のいる方角だけ教わって、膳《ぜん》を下げさせた。
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