2008年11月12日水曜日

五十三

 三好を中心にした洋行談がひとしきり弾《はず》んだ。相間《あいま》相間に巧みなきっかけを入れて話の後を釣り出して行く吉川夫人のお手際《てぎわ》を、黙って観察していたお延は、夫人がどんな努力で、彼ら四人の前に、この未知の青年紳士を押し出そうと試みつつあるかを見抜いた。穏和《おだやか》というよりもむしろ無口な彼は、自分でそうと気がつかないうちに、彼に好意をもった夫人の口車《くちぐるま》に乗せられて、最も有利な方面から自分をみんなの前に説明していた。
 彼女はこの談話の進行中、ほとんど一言《ひとこと》も口を挟《さしは》さむ余地を与えられなかった。自然の勢い沈黙の謹聴者たるべき地位に立った彼女には批判の力ばかり多く働らいた。卒直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、毫《ごう》も技巧の臭味《くさみ》なしに、着々成功して行く段取《だんどり》を、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない訳に行かなかった。しかしそれは上下の距離でなくって、平面の距離だという気がした。では恐るるに足りないかというとけっしてそうでなかった。一部分は得意な現在の地位からも出て来るらしい命令的の態度のほかに、夫人の技巧には時として恐るべき破壊力が伴なって来はしまいかという危険の感じが、お延の胸のどこかでした。
「こっちの気のせいかしらん」
 お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。
「延子さんが呆《あき》れていらっしゃる。あたしがあんまりしゃべるもんだから」
 お延は不意を打たれて退避《たじ》ろいだ。津田の前でかつて挨拶《あいさつ》に困った事のない彼女の智恵が、どう働いて好いか分らなくなった。ただ空疎な薄笑が瞬間の虚《きょ》を充《み》たした。しかしそれは御役目にもならない偽りの愛嬌《あいきょう》に過ぎなかった。
「いいえ、大変面白く伺《うかが》っております」と後《あと》から付け足した時は、お延自分でももう時機の後《おく》れている事に気がついていた。またやり損《そく》なったという苦《にが》い感じが彼女の口の先まで湧《わ》いて出た。今日こそ夫人の機嫌《きげん》を取り返してやろうという気込《きごみ》が一度に萎《な》えた。夫人は残酷に見えるほど早く調子を易《か》えて、すぐ岡本に向った。
「岡本さんあなたが外国から帰っていらしってから、もうよっぽどになりますね」
「ええ。何しろ一昔前《ひとむかしまえ》の事ですからな」
「一昔前って何年頃なの、いったい」
「さよう西暦《せいれき》……」
 自然だか偶然だか叔父はもったいぶった考え方をした。
「普仏戦争《ふふつせんそう》時分?」
「馬鹿にしちゃいけません。これでもあなたの旦那様《だんなさま》を案内して倫敦《ロンドン》を連れて歩いて上げた覚《おぼえ》があるんだから」
「じゃ巴理《パリ》で籠城《ろうじょう》した組じゃないのね」
「冗談じゃない」
 三好の洋行談をひとしきりで切り上げた夫人は、すぐ話頭を、それと関係の深い他の方面へ持って行った。自然吉川は岡本の相手にならなければすまなくなった。
「何しろ自動車のできたてで、あれが通ると、みんなふり返って見た時分だったからね」
「うん、あの鈍臭《のろくさ》いバスがまだ幅を利《き》かしていた時代だよ」
 その鈍臭いバスが、そういう交通機関を自分で利用した記憶のないほかの者にとって、何の思い出にならなかったにも関わらず、当時を回顧する二人の胸には、やっぱり淡い一種の感慨を惹《ひ》き起すらしく見えた。継子と三好を見較《みくら》べた岡本は、苦笑しながら吉川に云った。
「お互に年を取ったもんだね。不断はちっとも気がつかずに、まだ若いつもりかなんかで、しきりにはしゃぎ廻っているが、こうして娘の隣に坐って見ると、少し考えるね」
「じゃ始終《しじゅう》その子の傍《そば》に坐っていらっしったら好いでしょう」
 叔母はすぐ叔父に向った。叔父もすぐ答えた。
「全くだよ。外国から帰って来た時にゃ、この子がまだ」と云いかけてちょっと考えた彼は、「幾つだっけかな」と訊《き》いた。叔母がそんな呑気《のんき》な人に返事をする義務はないといわぬばかりの顔をして黙っているので、吉川が傍から口を出した。
「今度はお爺《じい》さまお爺さまって云われる時機が、もう眼前《がんぜん》に逼《せま》って来たんだ。油断はできません」
 継子が顔を赧《あか》くして下を向いた。夫人はすぐ夫の方を見た。
「でも岡本さんにゃ自分の年歯《とし》を計る生きた時計が付いてるから、まだよいんです。あなたと来たら何《なん》にも反省器械《はんせいきかい》を持っていらっしゃらないんだから、全く手に余るだけですよ」
「その代りお前だっていつまでもお若くっていらっしゃるじゃないか」
 みんなが声を出して笑った。

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