2008年11月13日木曜日

十八

 津田の宅《うち》へ帰ったのは、昨日《きのう》よりはやや早目であったけれども、近頃急に短かくなった秋の日脚《ひあし》は疾《と》くに傾いて、先刻《さっき》まで往来にだけ残っていた肌寒《はださむ》の余光が、一度に地上から払い去られるように消えて行く頃であった。
 彼の二階には無論火が点いていなかった。玄関も真暗であった。今|角《かど》の車屋の軒灯《けんとう》を明らかに眺めて来たばかりの彼の眼は少し失望を感じた。彼はがらりと格子《こうし》を開けた。それでもお延は出て来なかった。昨日の今頃待ち伏せでもするようにして彼女から毒気を抜かれた時は、余り好い心持もしなかったが、こうして迎える人もない真暗な玄関に立たされて見ると、やっぱり昨日の方が愉快だったという気が彼の胸のどこかでした。彼は立ちながら、「お延お延」と呼んだ。すると思いがけない二階の方で「はい」という返事がした。それから階子段《はしごだん》を踏んで降りて来る彼女の足音が聞こえた。同時に下女が勝手の方から馳《か》け出して来た。
「何をしているんだ」
 津田の言葉には多少不満の響きがあった。お延は何にも云わなかった。しかしその顔を見上げた時、彼はいつもの通り無言の裡《うち》に自分を牽《ひ》きつけようとする彼女の微笑を認めない訳に行かなかった。白い歯が何より先に彼の視線を奪った。
「二階は真暗じゃないか」
「ええ。何だかぼんやりして考えていたもんだから、つい御帰りに気がつかなかったの」
「寝ていたな」
「まさか」
 下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。
 湯に行く時、お延は「ちょっと待って」と云いながら、石鹸と手拭《てぬぐい》を例の通り彼女の手から受け取って火鉢《ひばち》の傍《そば》を離れようとする夫を引きとめた。彼女は後《うし》ろ向《むき》になって、重《かさ》ね箪笥《だんす》の一番下の抽斗《ひきだし》から、ネルを重ねた銘仙《めいせん》の褞袍《どてら》を出して夫の前へ置いた。
「ちょっと着てみてちょうだい。まだ圧《おし》が好く利《き》いていないかも知れないけども」
 津田は煙《けむ》に巻かれたような顔をして、黒八丈《くろはちじょう》の襟《えり》のかかった荒い竪縞《たてじま》の褞袍《どてら》を見守《みま》もった。それは自分の買った品でもなければ、拵《こしら》えてくれと誂《あつら》えた物でもなかった。
「どうしたんだい。これは」
「拵えたのよ。あなたが病院へ入る時の用心に。ああいう所で、あんまり変な服装《なり》をしているのは見っともないから」
「いつの間に拵えたのかね」
 彼が手術のため一週間ばかり家《うち》を空《あ》けなければならないと云って、その訳をお延に話したのは、つい二三日前《にさんちまえ》の事であった。その上彼はその日から今日《きょう》に至るまで、ついぞ針を持って裁物板《たちものいた》の前に坐《すわ》った細君の姿を見た事がなかった。彼は不思議の感に打たれざるを得なかった。お延はまた夫のこの驚きをあたかも自分の労力に対する報酬のごとくに眺めた。そうしてわざと説明も何も加えなかった。
「布《きれ》は買ったのかい」
「いいえ、これあたしの御古《おふる》よ。この冬着ようと思って、洗張《あらいはり》をしたまま仕立てずにしまっといたの」
 なるほど若い女の着る柄《がら》だけに、縞《しま》がただ荒いばかりでなく、色合《いろあい》もどっちかというとむしろ派出《はで》過ぎた。津田は袖《そで》を通したわが姿を、奴凧《やっこだこ》のような風をして、少しきまり悪そうに眺めた後でお延に云った。
「とうとう明日《あした》か明後日《あさって》やって貰う事にきめて来たよ」
「そう。それであたしはどうなるの」
「御前はどうもしやしないさ」
「いっしょに随《つ》いて行っちゃいけないの。病院へ」
 お延は金の事などをまるで苦にしていないらしく見えた。

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