2008年11月12日水曜日

四十九

 場中《じょうちゅう》の様子は先刻《さっき》見た時と何の変りもなかった。土間を歩く男女《なんにょ》の姿が、まるで人の頭の上を渡っているように煩《わず》らわしく眺《なが》められた。できるだけ多くの注意を惹《ひ》こうとする浮誇《ふこ》の活動さえ至る所に出現した。そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうしていつでも粉飾《ふんしょく》であった。
 比較的静かな舞台《ぶたい》の裏側では、道具方の使う金槌《かなづち》の音が、一般の予期を唆《そそ》るべく、折々場内へ響き渡った。合間合間には幕の後《うしろ》で拍子木《ひょうしぎ》を打つ音が、攪《か》き廻《まわ》された注意を一点に纏《まと》めようとする警柝《けいたく》の如《よう》に聞こえた。
 不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い幕間《まくあい》を、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟《しげき》を盛って、他愛《たわい》なく時間のために流されていた。彼らは穏和《おだや》かであった。彼らは楽しそうに見えた。お互の吐《は》く呼息《いき》に酔っ払った彼らは、少し醒《さ》めかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。すぐ相手の気分に同化する事ができた。
 席に戻った二人は愉快らしく四辺《あたり》を見廻した。それから申し合せたように問題の吉川夫人の方を見た。婦人の双眼鏡はもう彼らを覘《ねら》っていなかった。その代り双眼鏡の主人もどこかへ行ってしまった。
「あらいらっしゃらないわ」
「本当ね」
「あたし探《さが》してあげましょうか」
 百合子はすぐ自分の手に持ったこっちのオペラグラスを眼へ宛《あ》てがった。
「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんなら二人前《ににんまえ》ぐらい肥《ふと》ってるんだから、すぐ分るはずだけれども、やっぱりいないわよ」
 そう云いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。綺麗《きれい》な友染模様《ゆうぜんもよう》の背中が隠れるほど、帯を高く背負《しょ》った令嬢としては、言葉が少しもよそゆきでないので、姉はおかしさを堪《こら》えるような口元に、年上らしい威厳を示して、妹を窘《たし》なめた。
「百合子さん」
 妹は少しも応《こた》えなかった。例の通りちょっと小鼻を膨《ふく》らませて、それがどうしたんだといった風の表情をしながら、わざと継子を見た。
「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」
「帰りたければお帰りよ。お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから」
「でもいるわ」
 百合子はやはり動かなかった。子供でなくってはふるまいにくいこの腕白らしい態度の傍《かたわら》に、お延が年相応の分別《ふんべつ》を出して叔母に向った。
「あたしちょっと行って吉川さんの奥さんに御挨拶《ごあいさつ》をして来ましょうか。澄《す》ましていちゃ悪いわね」
 実を云うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向うでもこっちを嫌《きら》っているように思えた。しかも最初先方から自分を嫌い始めたために、この不愉快な現象が二人の間に起ったのだという朧気《おぼろげ》な理由さえあった。自分が嫌われるべき何らのきっかけも与えないのに、向うで嫌い始めたのだという自信も伴《ともな》っていた。先刻《さっき》双眼鏡を向けられた時、すでに挨拶《あいさつ》に行かなければならないと気のついた彼女は、即座にそれを断行する勇気を起し得なかったので、内心の不安を質問の形に引き直して叔母に相談しかけながら、腹の中では、その義務を容易《たやす》く果させるために、叔母が自分と連れ立って、夫人の所へ行ってくれはしまいかと暗《あん》に願っていた。
 叔母はすぐ返事をした。
「ああ行った方がいいよ。行っといでよ」
「でも今いらっしゃらないから」
「なにきっと廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」
「でも、――じゃ行くから叔母さんもいっしょにいらっしゃいな」
「叔母さんは――」
「いらっしゃらない?」
「行ってもいいがね。どうせ今に御飯を食べる時に、いっしょになるはずになってるんだから、御免蒙《ごめんこうむ》ってその時にしようかと思ってるのよ」
「あらそんなお約束があるの。あたしちっとも知らなかったわ。誰と誰がいっしょに御飯を召上《めしや》がるの」
「みんなよ」
「あたしも?」
「ああ」
 意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答えた。
「そんならあたしもその時にするわ」

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