2008年11月13日木曜日

四十

 天気が好いので幌《ほろ》を畳《たた》ました二人は、鞄《かばん》と風呂敷包を、各自《めいめい》の俥《くるま》の上に一つずつ乗せて家を出た。小路《こうじ》の角を曲って電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に声をかけた。俥は前後ともすぐとまった。
「大変。忘れものがあるの」
 車上でふり返った津田は、何にも云わずに細君の顔を見守った。念入《ねんいり》に身仕舞《みじまい》をした若い女の口から出る刺戟性《しげきせい》に富んだ言葉のために引きつけられたものは夫ばかりではなかった。車夫も梶棒《かじぼう》を握ったまま、等しくお延《のぶ》の方へ好奇の視線を向けた。傍《そば》を通る往来の人さえ一瞥《いちべつ》の注意を夫婦の上へ与えないではいられなかった。
「何だい。何を忘れたんだい」
 お延は思案するらしい様子をした。
「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」
 彼女は自分の俥だけを元へ返した。中《ちゅう》ぶらりんの心的状態でそこに取り残された津田は、黙ってその後姿を見送った。いったん小路の中に隠れた俥がやがてまた現われると、劇《はげ》しい速力でまた彼の待っている所まで馳《か》けて来た。それが彼の眼の前でとまった時、車上のお延は帯の間から一尺ばかりの鉄製の鎖《くさり》を出して長くぶら下げて見せた。その鎖の端《はじ》には環《わ》があって、環の中には大小五六個の鍵《かぎ》が通してあるので、鎖を高く示そうとしたお延の所作《しょさ》と共に、じゃらじゃらという音が津田の耳に響いた。
「これ忘れたの。箪笥《たんす》の上に置きっ放しにしたまま」
 夫婦以外に下女しかいない彼らの家庭では、二人|揃《そろ》って外出する時の用心に、大事なものに錠《じょう》を卸《おろ》しておいて、どっちかが鍵だけ持って出る必要があった。
「お前預かっておいで」
 じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、平手《ひらて》でぽんとその上を敲《たた》きながら、津田を見て微笑した。
「大丈夫」
 俥は再び走《か》け出した。
 彼らの医者に着いたのは予定の時刻より少し後《おく》れていた。しかし午《ひる》までの診察時間に間に合わないほどでもなかった。夫婦して控室に並んで坐るのが苦になるので、津田は玄関を上ると、すぐ薬局の口へ行った。
「すぐ二階へ行ってもいいでしょうね」
 薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んでくれた。まだ十六七にしかならないその看護婦は、何の造作《ぞうさ》もなく笑いながら津田にお辞儀《じぎ》をしたが、傍に立っているお延の姿を見ると、少し物々しさに打たれた気味で、いったいこの孔雀《くじゃく》はどこから入って来たのだろうという顔つきをした。お延が先《せん》を越して、「御厄介《ごやっかい》になります」とこっちから挨拶《あいさつ》をしたので、始めて気がついたように、看護婦も頭を下げた。
「君、こいつを一つ持ってくれたまえ」
 津田は車夫から受取った鞄《かばん》を看護婦に渡して、二階の上《あが》り口《くち》の方へ廻った。
「お延こっちだ」
 控室の入口に立って、患者のいる部屋の中を覗《のぞ》き込んでいたお延は、すぐ津田の後《あと》に随《つ》いて階子段《はしごだん》を上《あが》った。
「大変陰気な室《へや》ね、あすこは」
 南東《みなみひがし》の開《あ》いた二階は幸《さいわい》に明るかった。障子《しょうじ》を開けて縁側《えんがわ》へ出た彼女は、つい鼻の先にある西洋洗濯屋の物干《ものほし》を見ながら、津田を顧《かえり》みた。
「下と違ってここは陽気ね。そうしてちょっといいお部屋ね。畳は汚《よご》れているけれども」
 もと請負師《うけおいし》か何かの妾宅《しょうたく》に手を入れて出来上ったその医院の二階には、どことなく粋《いき》な昔の面影《おもかげ》が残っていた。
「古いけれども宅《うち》の二階よりましかも知れないね」
 日に照らされてきらきらする白い洗濯物の色を、秋らしい気分で眺めていた津田は、こう云って、時代のために多少|燻《くす》ぶった天井《てんじょう》だの床柱《とこばしら》だのを見廻した。

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