2008年11月12日水曜日

七十六

 叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。
 男が女を得て成仏《じょうぶつ》する通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度《ひとたび》夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏し悪《にく》くなる。今までの牽引力《けんいんりょく》がたちまち反撥性《はんぱつせい》に変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志という諺《ことわざ》を永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実を挙《あ》げるのは、やがて来《きた》るべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……
 叔父の言葉のどこまでが藤井の受売《うけうり》で、どこからが自分の考えなのか、またその考えのどこまでが真面目《まじめ》で、どこからが笑談《じょうだん》なのか、お延にはよく分らなかった。筆を持つ術《すべ》を知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であった。ちょっとした心棒《しんぼう》があると、その上に幾枚でも手製の着物を着せる事のできる人であった。俗にいう警句という種類のものが、いくらでも彼の口から出た。お延が反対すればするほど、膏《あぶら》が乗ってとめどなく出て来た。お延はとうとう好い加減にして切り上げなければならなかった。
「ずいぶんのべつね、叔父さんも」
「口じゃとても敵《かな》いっこないからお止《よ》しよ。こっちで何かいうと、なお意地になるんだから」
「ええ、わざわざ陰陽不和を醸《かも》すように仕向けるのね」
 お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の途切《とぎ》れるのを待って、徐《おもむ》ろに宣告を下した。
「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したで宜《よろ》しい。敗《ま》けたものを追窮《ついきゅう》はしないから。――そこへ行くと男にはまた弱いものを憐《あわ》れむという美点があるんだからな、こう見えても」
 彼はさも勝利者らしい顔を粧《よそお》って立ち上がった。障子《しょうじ》を開けて室《へや》の外へ出ると、もったいぶった足音が書斎の方に向いてだんだん遠ざかって行った。しばらくして戻って来た時、彼は片手に小型の薄っぺらな書物を四五冊持っていた。
「おいお延好いものを持って来た。お前|明日《あした》にでも病院へ行くなら、これを由雄さんの所へ持ってッておやり」
「何よ」
 お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女は拾《ひろ》い読《よみ》にぽつぽつ読み下した。ブック・オフ・ジョークス。イングリッシ・ウィット・エンド・ヒュモア。……
「へええ」
「みんな滑稽《こっけい》なもんだ。洒落《しゃれ》だとか、謎《なぞ》だとかね。寝ていて読むにはちょうど手頃で好いよ、肩が凝《こ》らなくってね」
「なるほど叔父さん向《むき》のものね」
「叔父さん向でもこのくらいな程度なら差支《さしつか》えあるまい。いくら由雄さんが厳格だって、まさか怒りゃしまい」
「怒るなんて、……」
「まあいいや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッてみるさ」
 お延が礼を云って書物を膝《ひざ》の上に置くと、叔父はまた片々《かたかた》の手に持った小さい紙片《かみぎれ》を彼女の前に出した。
「これは先刻《さっき》お前を泣かした賠償金《ばいしょうきん》だ。約束だからついでに持っておいで」
 お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。叔父はことさらにそれをふり廻した。
「お延、これは陰陽不和になった時、一番よく利《き》く薬だよ。たいていの場合には一服呑むとすぐ平癒《へいゆ》する妙薬だ」
 お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。
「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」
「和合ならなお結構だ。和合の時に呑めば、精神がますます健全になる。そうして身体《からだ》はいよいよ強壮になる。どっちへ転んでも間違のない妙薬だよ」
 叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見つめていたお延の眼に涙がいっぱい溜《たま》った。

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