2008年11月13日木曜日

十二

 その時二人の頭の上に下《さが》っている電灯がぱっと点《つ》いた。先刻《さっき》取次に出た書生がそっと室《へや》の中へ入って来て、音のしないようにブラインドを卸《お》ろして、また無言のまま出て行った。瓦斯煖炉《ガスだんろ》の色のだんだん濃くなって来るのを、最前《さいぜん》から注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を目送《もくそう》した。もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いている檸檬《レモン》の一切《ひときれ》を除《よ》けるようにしてその余りを残りなく啜《すす》った。そうしてそれを相図《あいず》に、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。用事は固《もと》より単簡《たんかん》であった。けれども細君の諾否《だくひ》だけですぐ決定されべき性質のものではなかった。彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか、そこは彼女にもまるで解らなかった。
「いつだって構やしないんでしょう。繰合《くりあわ》せさえつけば」
 彼女はさも無雑作《むぞうさ》な口ぶりで津田に好意を表してくれた。
「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」
「じゃ好いじゃありませんか。明日《あした》から休んだって」
「でもちょっと伺った上でないと」
「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」
 細君は快よく引き受けた。あたかも自分が他《ひと》のために働らいてやる用事がまた一つできたのを喜こぶようにも見えた。津田はこの機嫌《きげん》のいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのが嬉《うれ》しかった。自分の態度なり所作《しょさ》なりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼をなおさら嬉しくした。
 彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのを好《す》いていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと、或人が茶屋女などに突然背中を打《ど》やされた刹那《せつな》に受ける快感に近い或物であった。
 同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己を裕《ゆたか》にもっていた。彼はその自己をわざと押《お》し蔵《かく》して細君の前に立つ用意を忘れなかった。かくして彼は心置なく細君から嬲《なぶ》られる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁に倚《よ》りかかっていた。
 彼が用事を済まして椅子《いす》を離れようとした時、細君は突然口を開《ひら》いた。
「また子供のように泣いたり唸《うな》ったりしちゃいけませんよ。大きな体《なり》をして」
 津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。唐紙《からかみ》の開閉《あけたて》が局部に応《こた》えて、そのたんびにぴくんぴくんと身体《からだ》全体が寝床《ねどこ》の上で飛び上ったくらいなんですから。しかし今度《こんだ》は大丈夫です」
「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり口幅《くちはば》ったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ」
「あなたに見舞《みまい》に来ていただけるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」
「いっこう構わないわ」
 細君の様子は本気なのか調戯《からか》うのかちょっと要領を得なかった。医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいいと云おうとした津田は、少し口籠《くちごも》って躊躇《ちゅうちょ》した。細君は虚に乗じて肉薄した。
「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」
「じゃそのうちまた私の方から伺います」
 細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。

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