2008年11月13日木曜日

四十一

 そこへ先刻《さっき》の看護婦が急須《きゅうす》へ茶を淹《い》れて持って来た。
「今|仕度《したく》をしておりますから、少しの間どうぞ」
 二人は仕方なしに行儀よく差向いに坐ったなり茶を飲んだ。
「何だか気がそわそわして落ちつかないのね」
「まるでお客さまに行ったようだろう」
「ええ」
 お延は帯の間から女持の時計を出して見た。津田は時間の事よりもこれから受ける手術の方が気になった。
「いったい何分ぐらいで済むのかなあ。眼で見ないでもあの刃物《はもの》の音だけ聞いていると、好い加減変な心持になるからな」
「あたし怖《こわ》いわ、そんなものを見るのは」
 お延は実際怖そうに眉《まゆ》を動かした。
「だからお前はここに待っといでよ。わざわざ手術台の傍《そば》まで来て、穢《きた》ないところを見る必要はないんだから」
「でもこんな場合には誰か身寄《みより》のものが立ち合わなくっちゃ悪いんでしょう」
 津田は真面目《まじめ》なお延の顔を見て笑い出した。
「そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。誰がこれしきの療治に立合人《たちあいにん》なんか呼んで来る奴《やつ》があるものかね」
 津田は女に穢《きた》ないものを見せるのが嫌《きらい》な男であった。ことに自分の穢ないところを見せるは厭《いや》であった。もっと押しつめていうと、自分で自分の穢ないところを見るのでさえ、普通の人以上に苦痛を感ずる男であった。
「じゃ止《よ》しましょう」と云ったお延はまた時計を出した。
「お午《ひる》までに済むでしょうか」
「済むだろうと思うがね。どうせこうなりゃいつだって同《おん》なじこっちゃないか」
「そりゃそうだけど……」
 お延は後を云わなかった。津田も訊《き》かなかった。
 看護婦がまた階子段《はしごだん》の上へ顔を出した。
「支度《したく》ができましたからどうぞ」
 津田はすぐ立ち上った。お延も同時に立ち上ろうとした。
「お前はそこに待っといでと云うのに」
「診察室へ行くんじゃないのよ。ちょっとここの電話を借りるのよ」
「どこかへ用があるのかね」
「用じゃないけど、――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って」
 同じ区内にある津田の妹の家はそこからあまり遠くはなかった。今度の病気について妹《いもと》の事をあまり頭の中に入れていなかった津田は、立とうとするお延を留めた。
「いいよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり仰山《ぎょうさん》過ぎるよ。それにあいつが来るとやかましくっていけないからね」
 年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味の苦手《にがて》であった。
 お延は中腰《ちゅうごし》のまま答えた。
「でも後《あと》でまた何か云われると、あたしが困るわ」
 強《し》いてとめる理由も見出《みいだ》し得なかった津田は仕方なしに云った。
「かけても構わないが、何も今に限った事はないだろう。あいつは近所だから、きっとすぐ来るよ。手術をしたばかりで、神経が過敏になってるところへもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね」
 お延は微《かす》かな声で階下《した》を憚《はば》かるような笑い方をした。しかし彼女の露《あら》わした白い歯は、気の毒だという同情よりも、滑稽《こっけい》だという単純な感じを明らかに夫に物語っていた。
「じゃお秀さんへかけるのは止《よ》すから」
 こう云ったお延は、とうとう津田といっしょに立ち上った。
「まだほかにかける所があるのかい」
「ええ岡本へかけるのよ。午《ひる》までにかけるって約束があるんだから、いいでしょう、かけても」
 前後して階子段《はしごだん》を下りた二人は、そこで別々になった。一人が電話口の前に立った時、一人は診察室の椅子へ腰をおろした。

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