2008年11月11日火曜日

九十二

 前の晩よく寝られなかった津田は、その朝看護婦の運んで来てくれた膳《ぜん》にちょっと手を出したぎり、また仰向《あおむけ》になって、昨夕《ゆうべ》の不足を取り返すために、重たい眼を閉《つぶ》っていた。お秀の入って来たのは、ちょうど彼がうとうとと半睡状態に入《い》りかけた間際《まぎわ》だったので、彼は襖《ふすま》の音ですぐ眼を覚《さ》ました。そうして病人に斟酌《しんしゃく》を加えるつもりで、わざとそれを静かに開けたお秀と顔を見合せた。
 こういう場合に彼らはけっして愛嬌《あいきょう》を売り合わなかった。嬉《うれ》しそうな表情も見せ合わなかった。彼らからいうと、それはむしろ陳腐過《ちんぷす》ぎる社交上の形式に過ぎなかった。それから一種の虚偽に近い努力でもあった。彼らには自分ら兄妹《きょうだい》でなくては見られない、また自分ら以外の他人には通用し悪《にく》い黙契があった。どうせお互いに好く思われよう、好く思われようと意識して、上部《うわべ》の所作《しょさ》だけを人並に尽したところで、今さら始まらないんだから、いっそ下手に騙《だま》し合う手数《てかず》を省《はぶ》いて、良心に背《そむ》かない顔そのままで、面と向き合おうじゃないかという無言の相談が、多年の間にいつか成立してしまったのである。そうしてその良心に背かない顔というのは、取《とり》も直《なお》さず、愛嬌《あいきょう》のない顔という事に過ぎなかった。
 第一に彼らは普通の兄妹として親しい間柄《あいだがら》であった。だから遠慮の要《い》らないという意味で、不愛嬌《ぶあいきょう》な挨拶《あいさつ》が苦にならなかった。第二に彼らはどこかに調子の合わないところをもっていた。それが災《わざわい》の元で、互の顔を見ると、互に弾《はじ》き合《あ》いたくなった。
 ふと首を上げてそこにお秀を見出《みいだ》した津田の眼には、まさにこうした二重の意味から来る不精《ぶしょう》と不関心があった。彼は何物をか待ち受けているように、いったんきっと上げた首をまた枕の上に横たえてしまった。お秀はまたお秀で、それにはいっこう頓着《とんじゃく》なく、言葉もかけずに、そっと室《へや》の内に入って来た。
 彼女は何より先にまず、枕元にある膳《ぜん》を眺めた。膳の上は汚ならしかった。横倒しに引《ひ》ッ繰《く》り返《かえ》された牛乳の罎《びん》の下に、鶏卵《たまご》の殻《から》が一つ、その重みで押し潰《つぶ》されている傍《そば》に、歯痕《はがた》のついた焼麺麭《トースト》が食欠《くいかけ》のまま投げ出されてあった。しかもほかにまだ一枚手をつけないのが、綺麗《きれい》に皿の上に載っていた。玉子もまだ一つ残っていた。
「兄さん、こりゃもう済んだの。まだ食べかけなの」
 実際津田の片づけかたは、どっちにでも取れるような、だらしのないものであった。
「もう済んだんだよ」
 お秀は眉《まゆ》をひそめて、膳を階子段《はしごだん》の上《あが》り口《くち》まで運び出した。看護婦の手が隙《す》かなかったためか、いつまでも兄の枕元に取り散らかされている朝食《あさめし》の残骸《なきがら》は、掃除の行き届いた自分の家《うち》を今出かけて来たばかりの彼女にとって、あまり見っともいいものではなかった。
「汚ならしい事」
 彼女は誰に小言を云うともなく、ただ一人こう云って元の座に帰った。しかし津田は黙って取り合わなかった。
「どうしておれのここにいる事が知れたんだい」
「電話で知らせて下すったんです」
「お延がかい」
「ええ」
「知らせないでもいいって云ったのに」
 今度はお秀の方が取り合わなかった。
「すぐ来《き》ようと思ったんですけれども、あいにく昨日《きのう》は少し差支《さしつか》えがあって――」
 お秀はそれぎり後を云わなかった。結婚後の彼女には、こういう風に物を半分ぎりしか云わない癖がいつの間にか出て来た。場合によると、それが津田には変に受取れた。「嫁に行った以上、兄さんだってもう他人ですからね」という意味に解釈される事が時々あった。自分達夫婦の間柄《あいだがら》を考えて見ても、そこに無理はないのだと思い返せないほど理窟《りくつ》の徹《とお》らない頭をもった津田では無論なかった。それどころか、彼はこの妹のような態度で、お延が外へ対してふるまってくれれば好いがと、暗《あん》に希望していたくらいであった。けれども自分がお秀にそうした素振《そぶり》を見せられて見るとけっして好い気持はしなかった。そうして自分こそ絶えずお秀に対してそういう素振《そぶり》を見せているのにと反省する暇も何にもなくなってしまった。
 津田は後を訊《き》かずに思う通りを云った。
「なに今日だって、忙がしいところをわざわざ来てくれるには及ばないんだ。大した病気じゃないんだから」
「だって嫂《ねえ》さんが、もし閑《ひま》があったら行って上げて下さいって、わざわざ電話でおっしゃったから」
「そうかい」
「それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの」
 津田はようやく頭をお秀の方へ向けた。

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