2008年11月12日水曜日

六十七

 それは叔父が先刻玄関先で鍬《くわ》を動かしていた出入《でいり》の植木屋に呼ばれて、ちょっと席を外《はず》した後《あと》、また庭口から座敷へ上って来た時の事であった。
 まだ学校から帰らない百合子《ゆりこ》や一《はじめ》の噂《うわさ》に始まった叔母とお延の談話は、その時また偶然にも継子の方に滑《すべ》り込みつつあった。
「慾張屋《よくばりや》さん、もう好い加減に帰りそうなもんだのにね、何をしているんだろう」
 叔母はわざわざ百合子の命《つ》けた渾名《あざな》で継子を呼んだ。お延はすぐその慾張屋の様子を思い出した。自分に許された小天地のうちでは飽《あ》くまで放恣《ほうし》なくせに、そこから一歩踏み出すと、急に謹慎の模型見たように竦《すく》んでしまう彼女は、まるで父母の監督によって仕切られた家庭という籠《かご》の中で、さも愉快らしく囀《さえず》る小鳥のようなもので、いったん戸を開けて外へ出されると、かえってどう飛んでいいか、どう鳴いていいか解らなくなるだけであった。
「今日は何のお稽古《けいこ》に行ったの」
 叔母は「あてて御覧」と云った後で、すぐ坂の途中から持って来たお延の好奇心を満足させてくれた。しかしその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語学だと聞いた時に、彼女はまた改めて従妹《いとこ》の多慾に驚ろかされた。そんなにいろいろなものに手を出していったい何にするつもりだろうという気さえした。
「それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ」
 叔母はこう云って、弁護かたがた継子の意味をお延に説明した。それが間接ながらやはり今度の結婚問題に関係しているので、お延は叔母の手前|殊勝《しゅしょう》らしい顔をしてなるほどと首肯《うなず》かなければならなかった。
 夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合の好いもの、それらを予想して結婚前に習っておこうという女の心がけは、未来の良人《りょうじん》に対する親切に違なかった。あるいは単に男の気に入るためとしても有利な手段に違なかった。けれども継子にはまだそれ以上に、人間としてまた細君としての大事な稽古《けいこ》がいくらでも残っていた。お延の頭に描き出されたその稽古は、不幸にして女を善《よ》くするものではなかった。しかし女を鋭敏にするものであった。悪く摩擦《まさつ》するには相違なかった。しかし怜悧《れいり》に研《と》ぎ澄《すま》すものであった。彼女はその初歩を叔母から習った。叔父のお蔭《かげ》でそれを今日《こんにち》に発達させて来た。二人はそういう意味で育て上げられた彼女を、満足の眼で眺めているらしかった。
「それと同じ眼がどうしてあの継子に満足できるだろう」
 従妹《いとこ》のどこにも不平らしい素振《そぶり》さえ見せた事のない叔父叔母は、この点においてお延に不可解であった。強《し》いて解釈しようとすれば、彼らは姪《めい》と娘を見る眼に区別をつけているとでも云うよりほかに仕方がなかった。こういう考えに襲われると、お延は突然|口惜《くや》しくなった。そういう考えがまた時々|発作《ほっさ》のようにお延の胸を掴《つか》んだ。しかし城府を設けない行き届いた叔父の態度や、取扱いに公平を欠いた事のない叔母の親切で、それはいつでも燃え上る前に吹き消された。彼女は人に見えない袖《そで》を顔へあてて内部の赤面を隠しながら、やっぱり不思議な眼をして、二人の心持を解けない謎《なぞ》のように不断から見つめていた。
「でも継子さんは仕合せね。あたし見たいに心配性《しんぱいしょう》でないから」
「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただ宅《うち》にいると、いくら心配したくっても心配する種がないもんだから、ああして平気でいられるだけなのさ」
「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」
「そりゃお前と継《つぎ》とは……」
 中途で止《や》めた叔母は何をいう気か解らなかった。性質が違うという意味にも、身分が違うという意味にも、また境遇が違うという意味にも取れる彼女の言葉を追究する前に、お延ははっと思った。それは今まで気のつかなかった或物に、突然ぶつかったような動悸《どうき》がしたからである。
「昨日《きのう》の見合に引き出されたのは、容貌《ようぼう》の劣者として暗《あん》に従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」
 お延の頭に石火《せっか》のようなこの暗示が閃《ひら》めいた時、彼女の意志も平常《へいぜい》より倍以上の力をもって彼女に逼《せま》った。彼女はついに自分を抑《おさ》えつけた。どんな色をも顔に現さなかった。
「継子さんは得《とく》な方《かた》ね。誰にでも好かれるんだから」
「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好々《すきずき》だからね。あんな馬鹿でも……」
 叔父が縁側《えんがわ》へ上ったのと、叔母がこう云いかけたのとは、ほとんど同時であった。彼は大きな声で「継がどうしたって」と云いながらまた座敷へ入って来た。

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