2008年11月13日木曜日

四十二

「リチネはお飲みでしたろうね」
 医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田に訊《き》いた。
「飲みましたが思ったほど効目《ききめ》がないようでした」
 昨日《きのう》の津田にはリチネの効目を気にするだけの暇さえなかった。それからそれへと忙がしく心を使わせられた彼がこの下剤《げざい》から受けた影響は、ほとんど精神的に零《ゼロ》であったのみならず、生理的にも案外微弱であった。
「じゃもう一度|浣腸《かんちょう》しましょう」
 浣腸の結果も充分でなかった。
 津田はそれなり手術台に上《のぼ》って仰向《あおむけ》に寝た。冷たい防水布がじかに皮膚に触れた時、彼は思わず冷《ひや》りとした。堅い括《くく》り枕《まくら》に着けた彼の頭とは反対の方角からばかり光線が差し込むので、彼の眼は明りに向って寝る人のように、少しも落ちつけなかった。彼は何度も瞬《まばた》きをして、何度も天井《てんじょう》を見直した。すると看護婦が手術の器械を入れたニッケル製の四角な浅い盆みたようなものを持って彼の横を通ったので、白い金属性の光がちらちらと動いた。仰向けに寝ている彼には、それが自分の眼を掠《かす》めて通り過ぎるとしか思われなかった。見てならない気味の悪いものを、ことさらに偸《ぬす》み見たのだという心持がなおのこと募《つの》った。その時表の方で鳴る電話のベルが突然彼の耳に響いた。彼は今まで忘れていたお延の事を急に思い出した。彼女の岡本へかけた用事がやっと済んだ時に、彼の療治はようやく始まったのである。
「コカインだけでやります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分できそうですから」
 局部を消毒しながらこんな事を云う医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまた何でもないような一種の心持で聴いた。
 局部魔睡《きょくぶますい》は都合よく行った。まじまじと天井を眺めている彼は、ほとんど自分の腰から下に、どんな大事件が起っているか知らなかった。ただ時々自分の肉体の一部に、遠い所で誰かが圧迫を加えているような気がするだけであった。鈍《にぶ》い抵抗がそこに感ぜられた。
「どんなです。痛かないでしょう」
 医者の質問には充分の自信があった。津田は天井を見ながら答えた。
「痛かありません。しかし重い感じだけはあります」
 その重い感じというのを、どう云い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。
「どうも妙な感じです。説明のできないような」
「そうですか。我慢できますか」
 途中で脳貧血でも起されては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、何でもない彼をかえって不安にした。こういう場合予防のために葡萄酒《ぶどうしゅ》などを飲まされるものかどうか彼は全く知らなかったが、何しろ特別の手当を受ける事は厭《いや》であった。
「大丈夫です」
「そうですか。もう直《じき》です」
 こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来る手際《てぎわ》が閃《ひら》めいていそうに思われた。けれども手術は彼の言葉通りそう早くは片づかなかった。
 切物《きれもの》の皿に当って鳴る音が時々した。鋏《はさみ》で肉をじょきじょき切るような響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇《いかく》した。津田はそのたびにガーゼで拭き取られなければならない赤い血潮の色を、想像の眼で腥《なまぐ》さそうに眺めた。じっと寝かされている彼の神経はじっとしているのが苦になるほど緊張して来た。むず痒《かゆ》い虫のようなものが、彼の身体《からだ》を不安にするために、気味悪く血管の中を這《は》い廻った。
 彼は大きな眼を開《あ》いて天井《てんじょう》を見た。その天井の上には綺麗《きれい》に着飾ったお延がいた。そのお延が今何を考えているか、何をしているか、彼にはまるで分らなかった。彼は下から大きな声を出して、彼女を呼んで見たくなった。すると足の方で医者の声がした。
「やっと済みました」
 むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのした後《あと》で、医者はまた云った。
「瘢痕《はんこん》が案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分じっとしていて下さい」
 最後の注意と共に、津田はようやく手術台から下《お》ろされた。

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