2008年11月12日水曜日

五十四

 彼らほど多人数《たにんず》でない、したがって比較的静かなほかの客が、まるで舞台をよそにして、気楽そうな話ばかりしているお延の一群《いちぐん》を折々見た。時間を倹約するため、わざと軽い食事を取ったものたちが、珈琲《コヒー》も飲まずに、そろそろ立ちかける時が来ても、お延の前にはそれからそれへと新らしい皿が運ばれた。彼らは中途で拭布《ナプキン》を放《ほう》り出《だ》す訳に行かなかった。またそんな世話しない真似《まね》をする気もないらしかった。芝居を観《み》に来たというよりも、芝居場へ遊びに来たという態度で、どこまでもゆっくり構えていた。
「もう始まったのかい」
 急に静かになった食堂を見廻した叔父は、こう云って白服のボイに訊《き》いた。ボイは彼の前に温かい皿を置きながら、鄭寧《ていねい》に答えた。
「ただ今|開《あ》きました」
「いいや開いたって。この際眼よりも口の方が大事だ」
 叔父はすぐ皮付の鶏《とり》の股《もも》を攻撃し始めた。向うにいる吉川も、舞台で何が起っていようとまるで頓着《とんじゃく》しないらしかった。彼はすぐ叔父の後《あと》へついて、劇とは全く無関係な食物《くいもの》の挨拶《あいさつ》をした。
「君は相変らず旨《うま》そうに食うね。――奥さんこの岡本君が今よりもっと食って、もっと肥ってた時分、西洋人の肩車《かたぐるま》へ乗った話をお聞きですか」
 叔母は知らなかった。吉川はまた同じ問を継子にかけた。継子も知らなかった。
「そうでしょうね、あんまり外聞《がいぶん》の好い話じゃないから、きっと隠しているんですよ」
「何が?」
 叔父はようやく皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。すると吉川の夫人が傍《そば》から口を出した。
「おおかた重過ぎてその外国人を潰《つぶ》したんでしょう」
「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、倫敦《ロンドン》の群衆の中で、大男の肩の上へ噛《かじ》りついていたんだ。行列を見るためにね」
 叔父《おじ》はまだ笑いもしなかった。
「何を捏造《ねつぞう》する事やら。いったいそりゃいつの話だね」
「エドワード七世の戴冠式《たいかんしき》の時さ。行列を見ようとしてマンションハウスの前に立ってたところが、日本と違って向うのものがあんまり君より背丈《せい》が高過ぎるもんだから、苦し紛《まぎ》れにいっしょに行った下宿の亭主に頼んで、肩車に乗せて貰ったって云うじゃないか」
「馬鹿を云っちゃいけない。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」
 叔父の弁解はむしろ真面目《まじめ》であった。その真面目な口から猿という言葉が突然出た時、みんなは一度に笑った。
「なるほどあの猿ならよく似合うね。いくら英吉利人《イギリスじん》が大きいたって、どうも君じゃ辻褄《つじつま》が合わな過ぎると思ったよ。――あの猿と来たらまたずいぶん矮小《わいしょう》だからな」
 知っていながらわざと間違えたふりをして見せたのか、あるいは最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっと腑《ふ》に落ちたらしい言葉遣《ことばづか》いをして、なおその当人の猿という渾名《あざな》を、一座を賑《にぎ》わせる滑稽《こっけい》の余音《よいん》のごとく繰《く》り返《かえ》した。夫人は半《なか》ば好奇的で、半ば戒飭的《かいちょくてき》な態度を取った。
「猿だなんて、いったい誰の事をおっしゃるの」
「なにお前の知らない人だ」
「奥さん心配なさらないでも好ござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々は表裏《ひょうり》なく彼を猿々と呼び得る人間なんだから。その代り向うじゃ私の事を豚々って云ってるから、同《おん》なじ事です」
 こんな他愛《たわい》もない会話が取り換わされている間、お延はついに社交上の一員として相当の分前《わけまえ》を取る事ができなかった。自分を吉川夫人に売りつける機会はいつまで経《た》っても来なかった。夫人は彼女を眼中に置いていなかった。あるいはむしろ彼女を回避していた。そうして特に自分の一軒《いっけん》置いて隣りに坐っている継子にばかり話しかけた。たとい一分間でもこの従妹《いとこ》を、注意の中心として、みんなの前に引き出そうとする努力の迹《あと》さえありありと見えた。それを利用する事のできない継子が、感謝とは反対に、かえって迷惑そうな表情を、遠慮なく外部《そと》に示すたびに、すぐ彼女と自分とを比較したくなるお延の心には羨望《せんぼう》の漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1-87-6]《さざなみ》が立った。
「自分がもしあの従妹の地位に立ったなら」
 会食中の彼女はしばしばこう思った。そうしてその後《あと》から暗《あん》に人馴《ひとな》れない継子を憐《あわ》れんだ。最後には何という気の毒な女だろうという軽侮《けいぶ》の念が例《いつ》もの通り起った。

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