2008年11月11日火曜日

九十八

 しかしお時のじかに来る前に、津田へ電話のかかって来た事もたしかであった。彼は階子段《はしごだん》の途中で薬局生の面倒臭そうに取り次ぐ「津田さん電話ですよ」という声を聞いた。彼はお秀との対話をちょっとやめて、「どこからです」と訊《き》き返した。薬局生は下《お》りながら、「おおかたお宅からでしょう」と云った。冷笑なこの挨拶《あいさつ》が、つい込み入った話に身を入れ過ぎた津田の心を横着《おうちゃく》にした。芝居へ行ったぎり、昨日《きのう》も今日《きょう》も姿を見せないお延の仕うちを暗《あん》に快よく思っていなかった彼をなお不愉快にした。
「電話で釣るんだ」
 彼はすぐこう思った。昨日の朝もかけ、今日の朝もかけ、ことによると明日《あした》の朝も電話だけかけておいて、さんざん人の心を自分の方に惹《ひ》き着けた後で、ひょっくり本当の顔を出すのが手だろうと鑑定した。お延の彼に対する平生の素振《そぶり》から推して見ると、この類測に満更《まんざら》な無理はなかった。彼は不用意の際に、突然としてしかも静粛《しとやか》に自分を驚ろかしに這入《はい》って来るお延の笑顔さえ想像した。その笑顔がまた変に彼の心に影響して来る事も彼にはよく解っていた。彼女は一刹那《いっせつな》に閃《ひら》めかすその鋭どい武器の力で、いつでも即座に彼を征服した。今まで持《も》ち応《こた》えに持ち応え抜いた心機をひらりと転換させられる彼から云えば、見す見す彼女の術中に落ち込むようなものであった。
 彼はお秀の注意もかかわらず、電話をそのままにしておいた。
「なにどうせ用じゃないんだ。構わないよ。放《ほう》っておけ」
 この挨拶《あいさつ》がまたお秀にはまるで意外であった。第一はズボラを忌《い》む兄の性質に釣り合わなかった。第二には何でもお延の云いなり次第になっている兄の態度でなかった。彼女は兄が自分の手前を憚《はば》かって、不断の甘いところを押し隠すために、わざと嫂《あによめ》に対して無頓着《むとんじゃく》を粧《よそお》うのだと解釈した。心のうちで多少それを小気味よく感じた彼女も、下から電話の催促をする薬局生の大きな声を聞いた時には、それでも兄の代りに立ち上らない訳に行かなかった。彼女はわざわざ下まで降りて行った。しかしそれは何の役にも立たなかった。薬局生が好い加減にあしらって、荒らし抜いた後の受話器はもう不通になっていた。
 形式的に義務を済ました彼女が元の座に帰って、再び二人に共通な話題の緒口《いとくち》を取り上げた時、一方では急込《せきこ》んだお時が、とうとう我慢し切れなくなって自働電話を棄《す》てて電車に乗ったのである。それから十五分と経《た》たないうちに、津田はまた予想外な彼女の口から予想外な用事を聞かされて驚ろいたのである。
 お時の帰った後の彼の心は容易に元へ戻らなかった。小林の性格はよく知り抜いているという自信はありながら、不意に自分の留守宅《るすたく》に押しかけて来て、それほど懇意でもないお延を相手に、話し込もうとも思わなかった彼は、驚ろかざるを得ないのみならず、また考えざるを得なかった。それは外套《がいとう》をやるやらないの問題ではなかった。問題は、外套とはまるで縁のない、しかし他《ひと》の外套を、平気でよく知りもしない細君の手からじかに貰い受けに行くような彼の性格であった。もしくは彼の境遇が必然的に生み出した彼の第二の性格であった。もう一歩押して行くと、その性格がお延に向ってどう働らきかけるかが彼の問題であった。そこには突飛《とっぴ》があった。自暴《やけ》があった。満足の人間を常に不満足そうに眺める白い眼があった。新らしく結婚した彼ら二人は、彼の接触し得る満足した人間のうちで、得意な代表者として彼から選択《せんたく》される恐れがあった。平生から彼を軽蔑《けいべつ》する事において、何の容赦も加えなかった津田には、またそういう素地《したじ》を作っておいた自覚が充分あった。
「何をいうか分らない」
 津田の心には突然一種の恐怖が湧《わ》いた。お秀はまた反対に笑い出した。いつまでもその小林という男を何とかかとか批評したがる兄の意味さえ彼女にはほとんど通じなかった。
「何を云ったって、構わないじゃありませんか、小林さんなんか。あんな人のいう事なんぞ、誰も本気にするものはありゃしないわ」
 お秀も小林の一面をよく知っていた。しかしそれは多く彼が藤井の叔父《おじ》の前で出す一面だけに限られていた。そうしてその一面は酒を呑んだ時などとは、生れ変ったように打って違った穏やかな一面であった。
「そうでないよ、なかなか」
「近頃そんなに人が悪くなったの。あの人が」
 お秀はやっぱり信じられないという顔つきをした。
「だって燐寸《マッチ》一本だって、大きな家《うち》を焼こうと思えば、焼く事もできるじゃないか」
「その代り火が移らなければそれまででしょう、幾箱|燐寸《マッチ》を抱え込んでいたって。嫂《ねえ》さんはあんな人に火をつけられるような女じゃありませんよ。それとも……」

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