2008年11月13日木曜日

二十九

 いつの間にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手に皿小鉢《さらこばち》の音を立てていた叔母がまた茶の間へ顔を出した。
「由雄さん久しぶりだから御飯を食べておいで」
 津田は明日《あした》の治療を控えているので断って帰ろうとした。
「今日は小林といっしょに飯を食うはずになっているところへお前が来たのだから、ことによると御馳走《ごちそう》が足りないかも知れないが、まあつき合って行くさ」
 叔父にこんな事を云われつけない津田は、妙な心持がして、また尻《しり》を据《す》えた。
「今日は何事かあるんですか」
「何ね、小林が今度――」
 叔父はそれだけ云って、ちょっと小林の方を見た。小林は少し得意そうににやにやしていた。
「小林君どうかしたのか」
「何、君、なんでもないんだ。いずれきまったら君の宅《うち》へ行って詳《くわ》しい話をするがね」
「しかし僕は明日《あした》から入院するんだぜ」
「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」
 小林は追いかけて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしく訊《き》いた。医者の名が自分と同じ小林なので「はあそれじゃあの堀さんの」と云ったが急に黙ってしまった。堀というのは津田の妹婿の姓であった。彼がある特殊な病気のために、つい近所にいるその医者のもとへ通《かよ》ったのを小林はよく知っていたのである。
 彼の詳《くわ》しい話というのを津田はちょっと聞いて見たい気がした。それは先刻《さっき》叔母の云ったお金さんの結婚問題らしくもあった。またそうでないらしくも見えた。この思わせぶりな小林の態度から、多少の好奇心を唆《そそ》られた津田は、それでも彼に病院へ遊びに来いとは明言しなかった。
 津田が手術の準備だと云って、せっかく叔母の拵《こしら》えてくれた肉にも肴《さかな》にも、日頃大好な茸飯《たけめし》にも手をつけないので、さすがの叔母も気の毒がって、お金さんに頼んで、彼の口にする事のできる麺麭《パン》と牛乳を買って来させようとした。ねとねとしてむやみに歯の間に挟《はさ》まるここいらの麺麭に内心|辟易《へきえき》しながら、また贅沢《ぜいたく》だと云われるのが少し怖《こわ》いので、津田はただおとなしく茶の間を立つお金さんの後姿《うしろすがた》を見送った。
 お金さんの出て行った後で、叔母はみんなの前で叔父に云った。
「どうかまああの子《こ》も今度《こんだ》の縁が纏《まと》まるようになると仕合せですがね」
「纏まるだろうよ」
 叔父は苦《く》のなさそうな返事をした。
「至極《しごく》よさそうに思います」
 小林の挨拶《あいさつ》も気軽かった。黙っているのは津田と真事《まこと》だけであった。
 相手の名を聞いた時、津田はその男に一二度叔父の家《うち》で会ったような心持もしたが、ほとんど何らの記憶も残っていなかった。
「お金さんはその人を知ってるんですか」
「顔は知ってるよ。口は利《き》いた事がないけれども」
「じゃ向うも口を利いた事なんかないんでしょう」
「当り前さ」
「それでよく結婚が成立するもんだな」
 津田はこういって然《しか》るべき理窟《りくつ》が充分自分の方にあると考えた。それをみんなに見せるために、彼は馬鹿馬鹿しいというよりもむしろ不思議であるという顔つきをした。
「じゃどうすれば好いんだ。誰でもみんなお前が結婚した時のようにしなくっちゃいけないというのかね」
 叔父は少し機嫌《きげん》を損じたらしい語気で津田の方を向いた。津田はむしろ叔母に対するつもりでいたので、少し気の毒になった。
「そういう訳じゃないんです。そういう事情のもとにお金さんの結婚が成立しちゃ不都合だなんていう気は全くなかったのです。たといどんな事情だろうと結婚が成立さえすれば、無論結構なんですから」

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