2008年11月12日水曜日

八十

 強い意志がお延の身体《からだ》全体に充《み》ち渡った。朝になって眼を覚《さ》ました時の彼女には、怯懦《きょうだ》ほど自分に縁の遠いものはなかった。寝起《ねおき》の悪過ぎた前の日の自分を忘れたように、彼女はすぐ飛び起きた。夜具を跳《は》ね退《の》けて、床を離れる途端《とたん》に、彼女は自分で自分の腕の力を感じた。朝寒《あささむ》の刺戟《しげき》と共に、締《し》まった筋肉が一度に彼女を緊縮させた。
 彼女は自分の手で雨戸を手繰《たぐ》った。戸外《そと》の模様はいつもよりまだよッぽど早かった。昨日《きのう》に引き換えて、今日は津田のいる時よりもかえって早く起きたという事が、なぜだか彼女には嬉《うれ》しかった。怠《なま》けて寝過した昨日の償《つぐな》い、それも満足の一つであった。
 彼女は自分で床を上げて座敷を掃《は》き出した後で鏡台に向った。そうして結《ゆ》ってから四日目になる髪を解《と》いた。油で汚《よご》れた所へ二三度|櫛《くし》を通して、癖がついて自由にならないのを、無理に廂《ひさし》に束《つか》ね上《あ》げた。それが済んでから始めて下女を起した。
 食事のできるまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、膳《ぜん》に着いた時、下女から「今日は大変お早うございましたね」と云われた。何にも知らないお時は、彼女の早起を驚ろいているらしかった。また自分が主人より遅く起きたのをすまない事でもしたように考えているらしかった。
「今日は旦那様《だんなさま》のお見舞に行かなければならないからね」
「そんなにお早くいらっしゃるんでございますか」
「ええ。昨日《きのう》行かなかったから今日は少し早く出かけましょう」
 お延の言葉遣《ことばづかい》は平生より鄭寧《ていねい》で片づいていた。そこに或落ちつきがあった。そうしてその落ちつきを裏切る意気があった。意気に伴なう果断も遠くに見えた。彼女の中にある心の調子がおのずと態度にあらわれた。
 それでも彼女はすぐ出かけようとはしなかった。襷《たすき》を外《はず》して盆を持ったお時を相手に、しばらく岡本の話などをした。もと世話になった覚《おぼえ》のあるその家族は、お時にとっても、興味に充《み》ちた題目なので、二人は同じ事を繰り返すようにしてまで、よく彼らについて語り合った。ことに津田のいない時はそうであった。というのは、もし津田がいると、ある場合には、彼一人が除外物《のけもの》にされたような変な結果に陥《おちい》るからであった。ふとした拍子からそんな気下味《きまず》い思いを一二度経験した後で、そこに気をつけ出したお延は、そのほかにまだ、富裕な自分の身内を自慢らしく吹聴《ふいちょう》したがる女と夫から解釈される不快を避けなければならない理由もあったので、お時にもかねてその旨《むね》を言い含めておいたのである。
「御嬢さまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか」
「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らない様子だよ」
「早く好い所へいらっしゃるようになると、結構でございますがね」
「おおかたもうじきでしょう。叔父さんはあんな性急《せっかち》だから。それに継子さんはあたしと違って、ああいう器量好《きりょうよ》しだしね」
 お時は何か云おうとした。お延は下女のお世辞《せじ》を受けるのが苦痛だったので、すぐ自分でその後《あと》をつけた。
「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら悧巧《りこう》でも、気が利《き》いていても、顔が悪いと男には嫌《きら》われるだけね」
「そんな事はございません」
 お時が弁護するように強くこういったので、お延はなお自分を主張したくなった。
「本当よ。男はそんなものなのよ」
「でも、それは一時の事で、年を取るとそうは参りますまい」
 お延は答えなかった。しかし彼女の自信はそんな弱いものではなかった。
「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」
 お時は呆《あき》れた顔をしてお延を見た。
「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえばいいのでございましょう」
 お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。両方の度合をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。
 彼女が外出のため着物を着換えていると、戸外《そと》から誰か来たらしい足音がして玄関の号鈴《ベル》が鳴った。取次に出たお時に、「ちょっと奥さんに」という声が聞こえた。お延はその声の主《ぬし》を判断しようとして首を傾けた。

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