2008年11月13日木曜日

 電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は釣革《つりかわ》にぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。去年の疼痛《とうつう》がありありと記憶の舞台《ぶたい》に上《のぼ》った。白いベッドの上に横《よこた》えられた無残《みじめ》な自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分の唸《うな》り声が判然《はっきり》聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気を搾《しぼ》り出《だ》すような恐ろしい力の圧迫と、圧《お》された空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか思われない劇《はげ》しい苦痛とが彼の記憶を襲《おそ》った。
 彼は不愉快になった。急に気を換《か》えて自分の周囲を眺めた。周囲のものは彼の存在にすら気がつかずにみんな澄ましていた。彼はまた考えつづけた。
「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」
 荒川堤《あらかわづつみ》へ花見に行った帰り途から何らの予告なしに突発した当時の疼痛《とうつう》について、彼は全くの盲目漢《めくら》であった。その原因はあらゆる想像のほかにあった。不思議というよりもむしろ恐ろしかった。
「この肉体はいつ何時《なんどき》どんな変《へん》に会わないとも限らない。それどころか、今|現《げん》にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」
 ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっと後《うしろ》から突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心の中《うち》で叫んだ。
「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」
 彼は思わず唇《くちびる》を固く結んで、あたかも自尊心を傷《きずつ》けられた人のような眼を彼の周囲に向けた。けれども彼の心のうちに何事が起りつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、彼の眼遣《めづかい》に対して少しの注意も払わなかった。
 彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の軌道《レール》の上を走って前へ進むだけであった。彼は二三日《にさんち》前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。
「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」
 彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に当《あ》て篏《は》めて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後《うし》ろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動について他《ひと》から牽制《けんせい》を受けた覚《おぼえ》がなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。
「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰《もら》おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」
 彼は電車を降りて考えながら宅《うち》の方へ歩いて行った。

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