2008年11月13日木曜日

四十四

 津田は書物に手を触れなかった。
「岡本へは断ったんじゃないのか」
 不審よりも不平な顔をした彼が、向《むき》を変えて寝返りを打った時に、堅固にできていない二階の床《ゆか》が、彼の意を迎えるように、ずしんと鳴った。
「断ったのよ」
「断ったのに是非来いっていうのかね」
 この時津田は始めてお延の顔を見た。けれどもそこには彼の予期した何物も現われて来なかった。彼女はかえって微笑した。

「断ったのに是非来いっていうのよ」
「しかし……」
 彼はちょっと行きつまった。彼の胸には云うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通り迅速《じんそく》に働らいてくれなかった。
「しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか」
「それを云うのよ。岡本もよっぽどの没分暁漢《わからずや》ね」
 津田は黙ってしまった。何といって彼女を追究《ついきゅう》していいか見当《けんとう》がつかなかった。
「あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」
 彼女の眉《まゆ》がさもさも厭そうに動いた。
「疑ぐりゃしないが、何だか変だからさ」
「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」
 不幸にして津田にはその変なところが明暸《めいりょう》に云えなかった。
「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」
 津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格に関《かか》わるような気がした。と云って、女から甘く見られるのも、彼にとって少なからざる苦痛であった。二つの我《が》が我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、よそ目に見える彼は、比較的冷静であった。
「ああ」
 お延は微《かす》かな溜息《ためいき》を洩《も》らしてそっと立ち上った。いったん閉《た》て切《き》った障子《しょうじ》をまた開けて、南向の縁側《えんがわ》へ出た彼女は、手摺《てすり》の上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。隣の洗濯屋の物干《ものほし》に隙間《すきま》なく吊《つる》されたワイ襯衣《シャツ》だのシーツだのが、先刻《さっき》見た時と同じように、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。
「好いお天気だ事」
 お延が小さな声で独《ひと》りごとのようにこう云った時、それを耳にした津田は、突然|籠《かご》の中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。弱い女を自分の傍《そば》に縛《しば》りつけておくのが少し可哀相《かわいそう》になった。彼はお延に言葉をかけようとして、接穂《つぎほ》のないのに困った。お延も欄干《らんかん》に身を倚《よ》せたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。
 そこへ看護婦が二人の食事を持って下から上《あが》って来た。
「どうもお待遠さま」
 津田の膳《ぜん》には二個の鶏卵《けいらん》と一合のソップと麺麭《パン》がついているだけであった。その麺麭も半片の二分ノ一と分量はいつのまにか定められていた。
 津田は床の上に腹這《はらばい》になったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に云った。
「行くのか、行かないのかい」
 お延はすぐ肉匙《フォーク》の手を休めた。
「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、止《よ》せとおっしゃれば止すわ」
「大変柔順だな」
「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、訊《き》いて見ろって云うんですもの」
「だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」
「ええそりゃそうよ、約束ですもの。一返《いっぺん》断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一返その日の午《ひる》までに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの」
「岡本からそういう返事が来たのかい」
「ええ」
 しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。
「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」
 津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。
「そりゃ行きたいわ」
「とうとう白状したな。じゃおいでよ」
 二人はこういう会話と共に午飯《ひるめし》を済ました。

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