2008年11月13日木曜日

四十五

 手術後の夫を、やっと安静状態に寝かしておいて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間をだいぶ後《おく》らせていた。彼女は自分の行先を車夫に教えるために、ただ一口《ひとくち》劇場の名を云ったなり、すぐ俥《くるま》に乗った。門前に待たせておいたその俥は、角の帳場にある四五台のうちで一番新らしいものであった。
 小路《こうじ》を出た護謨輪《ゴムわ》は電車通りばかり走った。何の意味なしに、ただ賑《にぎ》やかな方角へ向けてのみ速力を出すといった風の、景気の好い車夫の駈方《かけかた》が、お延に感染した。ふっくらした厚い席の上で、彼女の身体《からだ》が浮《うわ》つきながら早く揺《うご》くと共に、彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。それは自分の左右前後に紛《ふん》として活躍する人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。
 車上の彼女は宅《うち》の事を考える暇がなかった。機嫌《きげん》よく病院の二階へ寝かして来た津田の影像《イメジ》が、今日一日ぐらい安心して彼を忘れても差支《さしつか》えないという保証を彼女に与えるので、夫の事もまるで苦にならなかった。ただ目前の未来が彼女の俥とともに動いた。芝居その物に大した嗜好《しこう》を始めからもっていない彼女は、時間が後《おく》れたのを気にするよりも、ただ早くそこに行き着くのを気にした。こうして新らしい俥で走っている道中が現に刺戟《しげき》であると同様の意味で、そこへ行き着くのはさらに一層の刺戟であった。
 俥は茶屋の前でとまった。挨拶《あいさつ》をする下女にすぐ「岡本」と答えたお延の頭には、提灯《ちょうちん》だの暖簾《のれん》だの、紅白の造り花などがちらちらした。彼女は俥を降りる時一度に眼に入ったこれらの色と形の影を、まだ片づける暇もないうちに、すぐ廊下伝いに案内されて、それよりも何層倍か錯綜《さくそう》した、また何層倍か濃厚な模様を、縦横に織り拡げている、海のような場内へ、ひょっこり顔を出した。それは茶屋の男が廊下の戸を開けて「こちらへ」と云った時、その隙間《すきま》から遠くに前の方を眺めたお延の感じであった。好んでこういう場所へ出入《しゅつにゅう》したがる彼女にとって、別に珍らしくもないこの感じは、彼女にとって、永久に新らしい感じであった。だからまた永久に珍らしい感じであるとも云えた。彼女は暗闇《くらやみ》を通り抜けて、急に明海《あかるみ》へ出た人のように眼を覚《さ》ました。そうしてこの氛囲気《ふんいき》の片隅《かたすみ》に身を置いた自分は、眼の前に動く生きた大きな模様の一部分となって、挙止動作《きょしどうさ》共ことごとくこれからその中に織り込まれて行くのだという自覚が、緊張した彼女の胸にはっきり浮んだ。
 席には岡本の姿が見えなかった。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。それでも姉娘の継子《つぎこ》は、お延の座があいにく自分の影になるのを気遣《きづか》うように、後《うしろ》を向いて筋違《すじかい》に身体《からだ》を延ばしながらお延に訊《き》いた。
「見えて? 少しここと換《かわ》ってあげましょうか」
「ありがとう。ここでたくさん」
 お延は首を振って見せた。
 お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘の百合子《ゆりこ》は左利《ひだりきき》なので、左の手に軽い小さな象牙製《ぞうげせい》の双眼鏡を持ったまま、その肱《ひじ》を、赤い布《きれ》で裹《つつ》んだ手摺《てすり》の上に載《の》せながら、後《うしろ》をふり返った。
「遅かったのね。あたし宅《うち》の方へいらっしゃるのかと思ってたのよ」
 年の若い彼女は、まだ津田の病気について挨拶《あいさつ》かたがたお延に何か云うほどの智慧《ちえ》をもたなかった。
「御用があったの?」
「ええ」
 お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。それは先刻《さっき》から姉妹《きょうだい》の母親が傍目《わきめ》もふらず熱心に見つめている方角であった。彼女とお延は最初顔を見合せた時に、ちょっと黙礼を取り替わせただけで、拍子木《ひょうしぎ》の鳴るまでついに一言《ひとこと》も口を利《き》かなかった。

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