2008年11月13日木曜日

 医者は探《さぐ》りを入れた後《あと》で、手術台の上から津田《つだ》を下《おろ》した。
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。この前《まえ》探《さぐ》った時は、途中に瘢痕《はんこん》の隆起《りゅうき》があったので、ついそこが行《い》きどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日《きょう》疎通を好くするために、そいつをがりがり掻《か》き落して見ると、まだ奥があるんです」
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」
 津田の顔には苦笑の裡《うち》に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。医者は自分の職業に対して虚言《うそ》を吐《つ》く訳に行かないんですから」という意味に受取れた。
 津田は無言のまま帯を締《し》め直して、椅子《いす》の背に投げ掛けられた袴《はかま》を取り上げながらまた医者の方を向いた。
「腸まで続いているとすると、癒《なお》りっこないんですか」
「そんな事はありません」
 医者は活溌《かっぱつ》にまた無雑作《むぞうさ》に津田の言葉を否定した。併《あわ》せて彼の気分をも否定するごとくに。
「ただ今《いま》までのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまで経《た》っても肉の上《あが》りこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思《ひとおも》いにやるよりほかに仕方がありませんね」
「根本的の治療と云うと」
「切開《せっかい》です。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。すると天然自然《てんねんしぜん》割《さ》かれた面《めん》の両側が癒着《ゆちゃく》して来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」
 津田は黙って点頭《うなず》いた。彼の傍《そば》には南側の窓下に据《す》えられた洋卓《テーブル》の上に一台の顕微鏡《けんびきょう》が載っていた。医者と懇意な彼は先刻《さっき》診察所へ這入《はい》った時、物珍らしさに、それを覗《のぞ》かせて貰《もら》ったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影《と》ったように鮮《あざ》やかに見える着色の葡萄状《ぶどうじょう》の細菌であった。
 津田は袴を穿《は》いてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入を懐《ふところ》に収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇《ちゅうちょ》した。
「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い溝《みぞ》を全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」
「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
 津田は思わず眉《まゆ》を寄せた。
「私《わたし》のは結核性じゃないんですか」
「いえ、結核性じゃありません」
 津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上に据《す》えた。医者は動かなかった。
「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」
「ええ。診察《み》た様子で分ります」
 その時看護婦が津田の後《あと》に廻った患者の名前を室《へや》の出口に立って呼んだ。待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。津田は早く退却しなければならなくなった。
「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」
「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」
 津田は自分の都合を善く考えてから日取をきめる事にして室外に出た。

 電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は釣革《つりかわ》にぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。去年の疼痛《とうつう》がありありと記憶の舞台《ぶたい》に上《のぼ》った。白いベッドの上に横《よこた》えられた無残《みじめ》な自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分の唸《うな》り声が判然《はっきり》聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気を搾《しぼ》り出《だ》すような恐ろしい力の圧迫と、圧《お》された空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか思われない劇《はげ》しい苦痛とが彼の記憶を襲《おそ》った。
 彼は不愉快になった。急に気を換《か》えて自分の周囲を眺めた。周囲のものは彼の存在にすら気がつかずにみんな澄ましていた。彼はまた考えつづけた。
「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」
 荒川堤《あらかわづつみ》へ花見に行った帰り途から何らの予告なしに突発した当時の疼痛《とうつう》について、彼は全くの盲目漢《めくら》であった。その原因はあらゆる想像のほかにあった。不思議というよりもむしろ恐ろしかった。
「この肉体はいつ何時《なんどき》どんな変《へん》に会わないとも限らない。それどころか、今|現《げん》にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」
 ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっと後《うしろ》から突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心の中《うち》で叫んだ。
「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」
 彼は思わず唇《くちびる》を固く結んで、あたかも自尊心を傷《きずつ》けられた人のような眼を彼の周囲に向けた。けれども彼の心のうちに何事が起りつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、彼の眼遣《めづかい》に対して少しの注意も払わなかった。
 彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の軌道《レール》の上を走って前へ進むだけであった。彼は二三日《にさんち》前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。
「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」
 彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に当《あ》て篏《は》めて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後《うし》ろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動について他《ひと》から牽制《けんせい》を受けた覚《おぼえ》がなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。
「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰《もら》おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」
 彼は電車を降りて考えながら宅《うち》の方へ歩いて行った。

 角《かど》を曲って細い小路《こうじ》へ這入《はい》った時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白い繊《ほそ》い手を額の所へ翳《かざ》すようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐ傍《そば》へ寄って来るまでその態度を改めなかった。
「おい何を見ているんだ」
 細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
「ああ吃驚《びっくり》した。――御帰り遊ばせ」
 同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注《そそ》ぎかけた。それから心持腰を曲《かが》めて軽い会釈《えしゃく》をした。
 半《なか》ば細君の嬌態《きょうたい》に応じようとした津田は半《なか》ば逡巡《しゅんじゅん》して立ち留まった。
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれ雀《すずめ》よ。雀が御向うの宅《うち》の二階の庇《ひさし》に巣を食ってるんでしょう」
 津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
「洋杖《ステッキ》」
 津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関の格子戸《こうしど》を開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫の後《あと》に跟《つ》いて沓脱《くつぬぎ》から上《あが》った。
 夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が火鉢《ひばち》の前に坐《すわ》るか坐らないうちに、また勝手の方から石鹸入《しゃぼんいれ》を手拭《てぬぐい》に包んで持って出た。
「ちょっと今のうち一風呂《ひとふろ》浴びていらっしゃい。またそこへ坐り込むと臆劫《おっくう》になるから」
 津田は仕方なしに手を出して手拭《てぬぐい》を受取った。しかしすぐ立とうとはしなかった。
「湯は今日はやめにしようかしら」
「なぜ。――さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」
 津田は仕方なしにまた立ち上った。室《へや》を出る時、彼はちょっと細君の方をふり返った。
「今日帰りに小林さんへ寄って診《み》て貰って来たよ」
「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもう癒《なお》ってるんでしょう」
「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」
 津田はこう云ったなり、後《あと》を聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。
 同じ話題が再び夫婦の間《あいだ》に戻って来たのは晩食《ゆうめし》が済んで津田がまだ自分の室へ引き取らない宵《よい》の口《くち》であった。
「厭《いや》ね、切るなんて、怖《こわ》くって。今までのようにそっとしておいたってよかないの」
「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」
「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」
 細君は濃い恰好《かっこう》の好い眉《まゆ》を心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたように訊《き》いた。
「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」
 細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。
「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」
「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものを断《ことわ》っちゃ」
「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」
「でもあたし行きたいんですもの」
「御前は行きたければおいでな」
「だからあなたもいらっしゃいな、ね。御厭《おいや》?」
 津田は細君の顔を見て苦笑を洩《も》らした。

 細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女の眉《まゆ》が一際《ひときわ》引立って見えた。彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。おまけに愛嬌《あいきょう》のない一重瞼《ひとえまぶち》であった。けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子《ひとみ》は漆黒《しっこく》であった。だから非常によく働らいた。或時は専横《せんおう》と云ってもいいくらいに表情を恣《ほしい》ままにした。津田は我知らずこの小《ちい》さい眼から出る光に牽《ひ》きつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光から跳《は》ね返される事もないではなかった。
 彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は刹那《せつな》的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やきであった。相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼つきのためにちょっと遮断《しゃだん》された。すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。同時に眼の表情があとかたもなく消えた。
「嘘《うそ》よ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。今のはただ甘ったれたのよ」
 黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。
「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。それで好いでしょう。岡本へは二三日中《にさんちじゅう》に端書《はがき》を出すか、でなければ私がちょっと行って断わって来ますから」
「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」
「いえ私も止《よ》しにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」
 津田は自分の受けべき手術についてなお詳《くわ》しい話を細君にしなければならなかった。
「手術ってたって、そう腫物《できもの》の膿《うみ》を出すように簡単にゃ行かないんだよ。最初|下剤《げざい》をかけてまず腸を綺麗《きれい》に掃除しておいて、それからいよいよ切開すると、出血の危険があるかも知れないというので、創口《きずぐち》へガーゼを詰《つ》めたまま、五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。だからたといこの次の日曜に行くとしたところで、どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも大した違にゃならないし、また日曜を繰《く》り上げて明日《あした》にしたところで、明後日《あさって》にしたところで、やっぱり同じ事なんだ。そこへ行くとまあ楽な病気だね」
「あんまり楽でもないわあなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」
 細君はまたぴくぴくと眉を動かして見せた。津田はそれに全く無頓着《むとんじゃく》であると云った風に、何か考えながら、二人の間に置かれた長火鉢《ながひばち》の縁《ふち》に右の肘《ひじ》を靠《も》たせて、その中に掛けてある鉄瓶《てつびん》の葢《ふた》を眺めた。朱銅《しゅどう》の葢の下では湯の沸《たぎ》る音が高くした。
「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」
「だから吉川《よしかわ》さんに会って訳を話して見た上で、日取をきめようかと思っているところだ。黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから」
「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。平生《ふだん》からあんなに御世話になっているんですもの」
「吉川さんに話したら明日《あした》からすぐ入院しろって云うかも知れない」
 入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。
「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」
「まあ入院さ」
「だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。みんな外来の患者ばかりだって」
「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階が空《あ》いてるもんだから、そこへ入《は》いる事もできるようになってるんだ」
「綺麗《きれい》?」
 津田は苦笑した。
「自宅《うち》よりは少しあ綺麗かも知れない」
 今度は細君が苦笑した。

 寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。細君は今まで通りの楽な姿勢で火鉢《ひばち》に倚《よ》りかかったまま夫を見上げた。
「また御勉強?」
 細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれに媚《こ》びようとした。ある時の彼はかえって反感的にそれから逃《のが》れたくなった。どちらの場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。おれにはおれでする事があるんだから」という相手を見縊《みくび》った自覚がぼんやり働らいていた。
 彼が黙って間《あい》の襖《ふすま》を開けて次の室《へや》へ出て行こうとした時、細君はまた彼の背後《うしろ》から声を掛けた。
「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」
 津田はちょっとふり向いた。
「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」
 細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。津田はそれぎり勾配《こうばい》の急な階子段《はしごだん》をぎしぎし踏んで二階へ上《あが》った。
 彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊|載《の》せてあった。彼は坐るなりそれを開いて枝折《しおり》の挿《はさ》んである頁《ページ》を目標《めあて》にそこから読みにかかった。けれども三四日《さんよっか》等閑《なおざり》にしておいた咎《とが》が祟《たた》って、前後の続き具合がよく解らなかった。それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、気の差《さ》した彼は、読む事の代りに、ただ頁をばらばらと翻《ひるがえ》して書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。すると前途|遼遠《りょうえん》という気が自《おのず》から起った。
 彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気がついて見るとそれから今日《こんにち》までにもう二カ月以上も経《た》っているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、さも下らない愚物《ぐぶつ》のように細君の前で罵《ののし》っていた。それを夫の口癖として聴かされた細君はまた彼を本当の勉強家として認めなければならないほど比較的多くの時間が二階で費やされた。前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、意地悪く彼の自尊心を擽《くすぐ》った。
 しかし今彼が自分の前に拡《ひろ》げている書物から吸収しようと力《つと》めている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。学校の講義から得た知識ですら滅多《めった》に実際の役に立った例《ためし》のない今の勤め向きとはほとんど没交渉と云ってもいいくらいのものであった。彼はただそれを一種の自信力として貯《たくわ》えておきたかった。他の注意を惹《ひ》く粧飾《しょうしょく》としても身に着けておきたかった。その困難が今の彼に朧気《おぼろげ》ながら見えて来た時、彼は彼の己惚《おのぼれ》に訊《き》いて見た。
「そう旨《うま》くは行かないものかな」
 彼は黙って煙草《たばこ》を吹かした。それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。そうして足早《あしばや》に階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。

「おいお延《のぶ》」
 彼は襖越《ふすまご》しに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙《からかみ》を開けて茶の間の入口に立った。すると長火鉢《ながひばち》の傍《わき》に坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。暗い玄関から急に明るい電灯の点《つ》いた室《へや》を覗《のぞ》いた彼の眼にそれが常よりも際立《きわだ》って華麗《はなやか》に見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔と派出《はで》やかな模様《もよう》とを等分に見較《みくら》べた。
「今時分そんなものを出してどうするんだい」
 お延は檜扇《ひおうぎ》模様の丸帯の端《はじ》を膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。
「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も締《し》めた事がないんですもの」
「それで今度《こんだ》その服装《なり》で芝居《しばや》に出かけようと云うのかね」
 津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延は何《なん》にも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒い眉《まゆ》をぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこの所作《しょさ》は時として変に津田の心を唆《そその》かすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。彼は黙って縁側《えんがわ》へ出て厠《かわや》の戸を開けた。それからまた二階へ上がろうとした。すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。
「あなた、あなた」
 同時に彼女は立って来た。そうして彼の前を塞《ふさ》ぐようにして訊《き》いた。
「何か御用なの」
 彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも長襦袢《ながじゅばん》よりもむしろ大事なものであった。
「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」
「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」
 津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。
「郵便函《ゆうびんばこ》の中を探させましょうか」
「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」
「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」
 御延は玄関の障子《しょうじ》を開けて沓脱《くつぬぎ》へ下りようとした。
「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」
「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」
 津田はようやく茶の間へ引き返して、先刻《さっき》飯を食う時に坐った座蒲団《ざぶとん》が、まだ火鉢《ひばち》の前に元の通り据《す》えてある上に胡坐《あぐら》をかいた。そうしてそこに燦爛《さんらん》と取り乱された濃い友染模様《ゆうぜんもよう》の色を見守った。
 すぐ玄関から取って返したお延の手にははたして一通の書状があった。
「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」
 こう云いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。
「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」
「何だ書留じゃないのか」
 津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。ぼんやり細君のよそ行着《ゆきぎ》の荒い御召《おめし》の縞柄《しまがら》を眺めながら独《ひと》りごとのように云った。
「困るな」
「どうなすったの」
「なに大した事じゃない」
 見栄《みえ》の強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間もない細君に話したくなかった。けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあった。

「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに、突然金の要《い》る間際《まぎわ》になって、こんな事を云って来て……」
「いったいどういう訳なんでしょう」
 津田はいったん巻き収めた手紙をまた封筒から出して膝《ひざ》の上で繰り拡げた。
「貸家が二軒先月末に空《あ》いちまったんだそうだ。それから塞《ふさ》がってる分からも家賃が入って来ないんだそうだ。そこへ持って来て、庭の手入だの垣根の繕《つくろ》いだので、だいぶ臨時費が嵩《かさ》んだから今月は送れないって云うんだ」
 彼は開いた手紙を、そのまま火鉢《ひばち》の向う側にいるお延の手に渡した。御延はまた何も云わずにそれを受取ったぎり、別に読もうともしなかった。この冷かな細君の態度を津田は最初から恐れていたのであった。
「なにそんな家賃なんぞ当《あて》にしないだって、送ってさえくれようと思えばどうにでも都合はつくのさ。垣根を繕うたっていくらかかるものかね。煉瓦《れんが》の塀《へい》を一丁も拵《こしら》えやしまいし」
 津田の言葉に偽《いつわり》はなかった。彼の父はよし富裕でないまでも、毎月《まいげつ》息子《むすこ》夫婦のためにその生計の不足を補ってやるくらいの出費に窮する身分ではなかった。ただ彼は地味な人であった。津田から云えば地味過ぎるぐらい質素であった。津田よりもずっと派出《はで》好きな細君から見ればほとんど無意味に近い節倹家であった。
「御父さまはきっと私達《わたしたち》が要らない贅沢《ぜいたく》をして、むやみに御金をぱっぱっと遣《つか》うようにでも思っていらっしゃるのよ。きっとそうよ」
「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時の生計《くらし》を覚えていて、同年輩の今の若いものも、万事自分のして来た通りにしなければならないように考えるんだからね。そりゃ御父さんの三十もおれの三十も年歯《とし》に変りはないかも知れないが、周囲《ぐるり》はまるで違っているんだからそうは行かないさ。いつかも会へ行く時会費はいくらだと訊《き》くから五円だって云ったら、驚ろいて恐ろしいような顔をした事があるよ」
 津田は平生《ふだん》からお延が自分の父を軽蔑《けいべつ》する事を恐れていた。それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉を洩《も》らさなければならなかった。それは本当に彼の感じた通りの言葉であった。同時にお延の批判に対して先手を打つという点で、自分と父の言訳にもなった。
「で今月はどうするの。ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」
 夫の手前老人に対する批評を憚《はば》かった細君の話頭《わとう》は、すぐ実際問題の方へ入って来た。津田の答は用意されていなかった。しばらくして彼は小声で独語《ひとりごと》のように云った。
「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが……」
 お延は夫の顔を見つめた。
「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」
「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなか埒《らち》は開《あ》かないよ」
「でもほかに当《あて》がなければ仕方なかないの」
「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」
「そうね」
 その時津田は真《ま》ともにお延の方を見た。そうして思い切ったような口調で云った。
「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」