2008年11月13日木曜日

三十九

 あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、昨夜《ゆうべ》寝るまで全く予想していなかった不意の観物《みもの》によって驚ろかされた。
 彼の床を離れたのは九時頃であった。彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。すると嬋娟《あでやか》に盛粧《せいそう》したお延が澄ましてそこに坐っていた。津田ははっと思った。寝起《ねおき》の顔へ水をかけられたような夫の様子に満足したらしい彼女は微笑を洩《も》らした。
「今|御眼覚《おめざめ》?」
 津田は眼をぱちつかせて、赤い手絡《てがら》をかけた大丸髷《おおまるまげ》と、派出《はで》な刺繍《ぬい》をした半襟《はんえり》の模様と、それからその真中にある化粧後《けしょうご》の白い顔とを、さも珍らしい物でも見るような新らしい眼つきで眺めた。
「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」
 お延は平気なものであった。
「どうもしないわ。――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの」
 昨夜遅くそこへ脱ぎ捨てて寝たはずの彼の袴《はかま》も羽織も、畳んだなり、ちゃんと取り揃《そろ》えて、渋紙《しぶかみ》の上へ載《の》せてあった。
「お前もいっしょに行くつもりだったのかい」
「ええ無論行くつもりだわ。行っちゃ御迷惑なの」
「迷惑って訳はないがね。――」
 津田はまた改めて細君の服装《なり》を吟味《ぎんみ》するように見た。
「あんまりおつくりが大袈裟《おおげさ》だからね」
 彼はすぐ心の中《うち》でこの間見た薄暗い控室の光景を思い出した。そこに坐っている患者の一群《ひとむれ》とこの着飾った若い奥様とは、とても調和すべき性質のものでなかった。
「だってあなた今日は日曜よ」
「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」
「だって妾《あたし》……」
 津田に云わせれば、日曜はなおの事患者が朝から込み合うだけであった。
「どうもそういうでこでこな服装《なり》をして、あのお医者様へ夫婦お揃《そろ》いで乗り込むのは、少し――」
「辟易《へきえき》?」
 お延の漢語が突然津田を擽《くすぐ》った。彼は笑い出した。ちょっと眉《まゆ》を動かしたお延はすぐ甘垂《あまった》れるような口調を使った。
「だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。せっかく着ちまったんだから、今日はこれで堪忍《かんにん》してちょうだいよ、ね」
 津田はとうとう敗北した。顔を洗っているとき、彼は下女に俥《くるま》を二台云いつけるお延の声を、あたかも自分が急《せ》き立《た》てられでもするように世話《せわ》しなく聞いた。

 普通の食事を取らない彼の朝飯《あさめし》はほとんど五分とかからなかった。楊枝《ようじ》も使わないで立ち上った彼はすぐ二階へ行こうとした。
「病院へ持って行くものを纏《まと》めなくっちゃ」
 津田の言葉と共に、お延はすぐ自分の後《うしろ》にある戸棚《とだな》を開けた。
「ここに拵《こしら》えてあるからちょっと見てちょうだい」
 よそ行着《ゆきぎ》を着た細君を労《いたわ》らなければならなかった津田は、やや重い手提鞄《てさげかばん》と小さな風呂敷包《ふろしきづつみ》を、自分の手で戸棚《とだな》から引《ひ》き摺《ず》り出した。包の中には試しに袖《そで》を通したばかりの例の褞袍《どてら》と平絎《ひらぐけ》の寝巻紐《ねまきひも》が這入《はい》っているだけであったが、鞄《かばん》の中からは、楊枝だの歯磨粉《はみがき》だの、使いつけたラヴェンダー色の書翰用紙《しょかんようし》だの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さい鋏《はさみ》だの、毛抜だのが雑然と現われた。そのうちで一番重くて嵩張《かさば》った大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云った。
「これは置いて行くよ」
「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、枝折《しおり》が挟《はさ》んであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」
 津田君は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学の独逸書《ドイツしょ》を重そうに畳の上に置いた。
「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」
 こう云った津田は、それがこの大部《たいぶ》の書物を残して行く正当の理由であると知りながら、あまり好い心持がしなかった。
「そう、本はどれが要《い》るんだか妾分らないから、あなた自分でお好きなのを択《よ》ってちょうだい」
 津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へ詰《つ》め込んだ。

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