2008年11月13日木曜日

三十三

 戸外《そと》には風もなかった。静かな空気が足早に歩く二人の頬《ほお》に冷たく触れた。星の高く輝やく空から、眼に見えない透明な露《つゆ》がしとしと降りているらしくも思われた。津田は自分で外套《がいとう》の肩を撫《な》でた。その外套の裏側に滲《し》み込んでくるひんやりした感じを、はっきり指先で味わって見た彼は小林を顧《かえり》みた。
「日中《にっちゅう》は暖《あった》かだが、夜になるとやっぱり寒いね」
「うん。何と云ってももう秋だからな。実際外套が欲しいくらいだ」
 小林は新調の三《み》つ揃《ぞろい》の上に何にも着ていなかった。ことさらに爪先《つまさき》を厚く四角に拵《こしら》えたいかつい亜米利加型《アメリカがた》の靴をごとごと鳴らして、太い洋杖《ステッキ》をわざとらしくふり廻す彼の態度は、まるで冷たい空気に抵抗する示威運動者に異《こと》ならなかった。
「君学校にいた時分作ったあの自慢の外套はどうした」
 彼は突然意外な質問を津田にかけた。津田は彼にその外套を見せびらかした当時を思い出さない訳に行かなかった。
「うん、まだあるよ」
「まだ着ているのか」
「いくら僕が貧乏だって、書生時代の外套を、そう大事そうにいつまで着ているものかね」
「そうか、それじゃちょうど好い。あれを僕にくれ」
「欲しければやっても好い」
 津田はむしろ冷やかに答えた。靴足袋《くつたび》まで新らしくしている男が、他《ひと》の着古した外套を貰いたがるのは少し矛盾であった。少くとも、その人の生活に横《よこた》わる、不規則な物質的の凸凹《たかびく》を証拠《しょうこ》立てていた。しばらくしてから、津田は小林に訊《き》いた。
「なぜその背広《せびろ》といっしょに外套も拵えなかったんだ」
「君と同《おん》なじように僕を考えちゃ困るよ」
「じゃどうしてその背広だの靴だのができたんだ」
「訊き方が少し手酷《てきび》し過ぎるね。なんぼ僕だってまだ泥棒はしないから安心してくれ」
 津田はすぐ口を閉じた。
 二人は大きな坂の上に出た。広い谷を隔《へだ》てて向《むこう》に見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横わっていた。秋の夜の灯火がところどころに点々と少量の暖かみを滴《したた》らした。
「おい、帰りにどこかで一杯やろうじゃないか」
 津田は返事をする前に、まず小林の様子を窺《うかが》った。彼らの右手には高い土手があって、その土手の上には蓊欝《こんもり》した竹藪《たけやぶ》が一面に生《お》い被《かぶ》さっていた。風がないので竹は鳴らなかったけれども、眠ったように見えるその笹《ささ》の葉の梢《こずえ》は、季節相応な蕭索《しょうさく》の感じを津田に与えるに充分であった。
「ここはいやに陰気な所だね。どこかの大名華族の裏に当るんで、いつまでもこうして放《ほう》ってあるんだろう。早く切り開いちまえばいいのに」
 津田はこういって当面の挨拶《あいさつ》をごまかそうとした。しかし小林の眼に竹藪なぞはまるで入らなかった。
「おい行こうじゃないか、久しぶりで」
「今飲んだばかりだのに、もう飲みたくなったのか」
「今飲んだばかりって、あれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね」
「でも君はもう充分ですって断っていたじゃないか」
「先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから、仕方なしにああ云ったんだね。まるっきり飲まないんならともかくも、あのくらい飲ませられるのはかえって毒だよ。後から適当の程度まで酔っておいて止《や》めないと身体《からだ》に障《さわ》るからね」
 自分に都合の好い理窟《りくつ》を勝手に拵《こし》らえて、何でも津田を引張ろうとする小林は、彼にとって少し迷惑な伴侶《つれ》であった。彼は冷かし半分に訊《き》いた。
「君が奢《おご》るのか」
「うん奢っても好い」
「そうしてどこへ行くつもりなんだ」
「どこでも構わない。おでん屋でもいいじゃないか」
 二人は黙って坂の下まで降りた。

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