2008年11月12日水曜日

五十六

 残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の波瀾《はらん》も来なかった。ただ褞袍《どてら》を着て横臥《おうが》した寝巻姿《ねまきすがた》の津田の面影《おもかげ》が、熱心に舞台を見つめている彼女の頭の中に、不意に出て来る事があった。その面影は今まで読みかけていた本を伏せて、ここに坐っている彼女を、遠くから眺めているらしかった。しかしそれは、彼女が喜こんで彼を見返そうとする刹那《せつな》に、「いや疳違《かんちが》いをしちゃいけない、何をしているかちょっと覗《のぞ》いて見ただけだ。お前なんかに用のあるおれじゃない」という意味を、眼つきで知らせるものであった。騙《だま》されたお延は何だ馬鹿らしいという気になった。すると同時に津田の姿も幽霊のようにすぐ消えた。二度目にはお延の方から「もうあなたのような方の事は考えて上げません」と云い渡した。三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女は舌打《したうち》をしたくなった。
 食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて夕飯後《ゆうめしご》に起った新らしい経験にほかならなかった。彼女は黙って前後|二様《によう》の自分を比較して見た。そうしてこの急劇な変化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前を繰《く》り返《かえ》さない訳に行かなかった。今夜もし夫人と同じ食卓《テーブル》で晩餐《ばんさん》を共にしなかったならば、こんな変な現象はけっして自分に起らなかったろうという気が、彼女の頭のどこかでした。しかし夫人のいかなる点が、この苦《にが》い酒を醸《かも》す醗酵分子《はっこうぶんし》となって、どんな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかと訊《き》かれると、彼女はとても判然《はっきり》した返事を与えることができなかった。彼女はただ不明暸《ふめいりょう》な材料をもっていた。そうして比較的明暸な断案に到着していた。材料に不足な掛念《けねん》を抱《いだ》かない彼女が、その断案を不備として疑うはずはなかった。彼女は総《すべ》ての源因が吉川夫人にあるものと固く信じていた。
 芝居が了《は》ねていったん茶屋へ引き上げる時、お延はそこでまた夫人に会う事を恐れた。しかし会ってもう少し突ッ込んで見たいような気もした。帰りを急ぐ混雑《ごたごた》した間際《まぎわ》に、そんな機会の来るはずもないと、始めから諦《あき》らめている癖に、そうした好奇の心が、会いたくないという回避の念の蔭《かげ》から、ちょいちょい首を出した。
 茶屋は幸にして異《ちが》っていた。吉川夫婦の姿はどこにも見えなかった。襟《えり》に毛皮の付いた重そうな二重廻《にじゅうまわ》しを引掛《ひっか》けながら岡本がコートに袖《そで》を通しているお延を顧《かえり》みた。
「今日は宅《うち》へ来て泊って行かないかね」
「え、ありがとう」
 泊るとも泊らないとも片づかない挨拶《あいさつ》をしたお延は、微笑しながら叔母を見た。叔母はまた「あなたの気楽さ加減にも呆《あき》れますね」という表情で叔父を見た。そこに気がつかないのか、あるいは気がついても無頓着《むとんじゃく》なのか、彼は同じ事を、前よりはもっと真面目《まじめ》な調子で繰り返した。
「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮は要《い》らないから」
「泊っていけったって、あなた、宅《うち》にゃ下女がたった一人で、この子の帰るのを待ってるんですもの。そんな事無理ですわ」
「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」
 そんなら止《よ》すが好かろうと云った風の様子をした叔父は、無論最初からどっちでも構わないものをちょっと問題にして見ただけであった。
「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も御厄介《ごやっかい》になった事はなくってよ」
「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正の至《いたり》だね」
「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」
「いや結構ですよ。御夫婦お揃《そろい》で、お堅くっていらっしゃるのは――」
「何よりもって恐悦至極《きょうえつしごく》」
 先刻《さっき》聞いた役者の言葉を、小さな声で後《あと》へ付け足した継子は、そう云った後で、自分ながらその大胆さに呆《あき》れたように、薄赤くなった。叔父はわざと大きな声を出した。
「何ですって」
 継子はきまりが悪いので、聞こえないふりをして、どんどん門口《かどぐち》の方へ歩いて行った。みんなもその後《あと》に随《つ》いて表へ出た。
 車へ乗る時、叔父はお延に云った。

「お前|宅《うち》へ泊れなければ、泊らないでいいから、その代りいつかおいでよ、二三日中《にさんちじゅう》にね。少し訊《き》きたい事があるんだから」
「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼かたがた是非上るわ。もしか都合ができたら明日《あした》にでも伺ってよ、好くって」
「オー、ライ」
 四人の車はこの英語を相図《あいず》に走《か》け出《だ》した。

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