2008年11月13日木曜日

四十七

 手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。自分の朝夕《あさゆう》尽している親切は、ずいぶん精一杯なつもりでいるのに、夫の要求する犠牲には際限がないのかしらんという、不断からの疑念が、濃い色でぱっと頭の中へ出た。彼女はその疑念を晴らしてくれる唯一《ゆいいつ》の責任者が今自分の前にいるのだという自覚と共に、岡本の細君を見た。その細君は、遠くに離れている両親をもった彼女から云えば、東京中で頼りにするたった一人の叔母であった。
「良人《おっと》というものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿《かいめん》に過ぎないのだろうか」
 これがお延のとうから叔母《おば》にぶつかって、質《ただ》して見たい問であった。不幸にして彼女には持って生れた一種の気位《きぐらい》があった。見方次第では痩我慢《やせがまん》とも虚栄心とも解釈のできるこの気位が、叔母に対する彼女を、この一点で強く牽制《けんせい》した。ある意味からいうと、毎日土俵の上で顔を合せて相撲《すもう》を取っているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻はいつでも夫の相手であり、またたまには夫の敵であるにしたところで、いったん世間に向ったが最後、どこまでも夫の肩を持たなければ、体《てい》よく夫婦として結びつけられた二人の弱味を表へ曝《さら》すような気がして、恥ずかしくていられないというのがお延の意地であった。だから打ち明け話をして、何か訴えたくてたまらない時でも、夫婦から見れば、やっぱり「世間」という他人の部類へ入れべきこの叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が悪くって何も云う気にならなかった。
 その上彼女は、自分の予期通り、夫が親切に親切を返してくれないのを、足りない自分の不行届《ふゆきとどき》からでも出たように、傍《はた》から解釈されてはならないと日頃から掛念《けねん》していた。すべての噂《うわさ》のうちで、愚鈍という非難を、彼女は火のように恐れていた。
「世間には津田よりも何層倍か気《き》むずかしい男を、すぐ手の内に丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うように良人《おっと》を綾《あや》なして行けないのは、畢竟《ひっきょう》知恵《ちえ》がないからだ」
 知恵と徳とをほとんど同じように考えていたお延には、叔母からこう云われるのが、何よりの苦痛であった。女として男に対する腕をもっていないと自白するのは、人間でありながら人間の用をなさないと自白するくらいの屈辱として、お延の自尊心を傷《きずつ》けたのである。時と場合が、こういう立ち入った談話を許さない劇場でないにしたところで、お延は黙っているよりほかに仕方がなかった。意味ありげに叔母の顔を見た彼女は、すぐ眼を外《そら》せた。
 舞台一面に垂れている幕がふわふわ動いて、継目《つぎめ》の少し切れた間から誰かが見物の方を覗《のぞ》いた。気のせいかそれがお延の方を見ているようなので、彼女は今向け換えたばかりの眼をまたよそに移した。下は席を出る人、座へ戻る人、途中を歩く人で、一度にざわつき始めていた。坐《すわ》ったぎりの大多数も、前後左右に思い思いの姿勢を取ったり崩《くず》したりして、片時も休まなかった。無数の黒い頭が渦《うず》のように見えた。彼らの或者の派出《はで》な扮装《つくり》が、色彩の運動から来る落ちつかない快感を、乱雑にちらちらさせた。
 土間《どま》から眼を放したお延は、ついに谷を隔《へだ》てた向う側を吟味《ぎんみ》し始めた。するとちょうどその時|後《うしろ》をふり向いた百合子が不意に云った。
「あすこに吉川さんの奥さんが来ていてよ。見えたでしょう」
 お延は少し驚ろかされた眼を、教わった通りの見当《けんとう》へつけて、そこに容易《たやす》く吉川夫人らしい人の姿を発見した。
「百合子さん、眼が早いのね、いつ見つけたの」
「見つけやしないのよ。先刻《さっき》から知ってるのよ」
「叔母さんや継子さんも知ってるの」
「ええ皆《みん》な知ってるのよ」
 知らないのは自分だけだったのにようやく気のついたお延が、なおその方を百合子の影から見守っていると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあった双眼鏡が、お延の席に向けられた。
「あたし厭《いや》だわ。あんなにして見られちゃ」
 お延は隠れるように身を縮《ちぢ》めた。それでも向側《むこうがわ》の双眼鏡は、なかなかお延の見当から離れなかった。
「そんならいいわ。逃げ出しちまうだけだから」
 お延はすぐ継子の後《あと》を追《おっ》かけて廊下へ出た。

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