2008年11月13日木曜日

 厳《いか》めしい表玄関の戸はいつもの通り締《し》まっていた。津田はその上半部《じょうはんぶ》に透《すか》し彫《ぼり》のように篏《は》め込《こ》まれた厚い格子《こうし》の中を何気なく覗《のぞ》いた。中には大きな花崗石《みかげいし》の沓脱《くつぬぎ》が静かに横たわっていた。それから天井《てんじょう》の真中から蒼黒《あおぐろ》い色をした鋳物《いもの》の電灯笠《でんとうがさ》が下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだ例《ためし》のない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐ傍《そば》にある内玄関《ないげんかん》から案内を頼んだ。
「まだ御帰りになりません」
 小倉《こくら》の袴《はかま》を着けて彼の前に膝《ひざ》をついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものと呑《の》み込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返して訊《き》いた。
「奥さんはおいでですか」
「奥さんはいらっしゃいます」
 事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。
「ではどうぞ奥さんに」
 彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は厭《いや》な顔もせずに奥へ入った。それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。
 彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も莨盆《たばこぼん》も運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。
「今御帰りがけ?」
 彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」
 津田の挨拶《あいさつ》に軽い会釈《えしゃく》をしたなり席に着いた細君はすぐこう訊《き》いた。津田はちょっと苦笑した。何と返事をしていいか分らなかった。
「奥さんができたせいか近頃はあんまり宅《うち》へいらっしゃらなくなったようね」
 細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に年齢下《としした》の男を見るだけであった。そうしてその年齢下の男はかねて眼下《めした》の男であった。
「まだ嬉《うれ》しいんでしょう」
 津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。
「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」
「ええもう半歳《はんとし》と少しになります」
「早いものね、ついこの間《あいだ》だと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」
「何がです」
「御夫婦仲がよ」
「別にどうという事もありません」
「じゃもう嬉《うれ》しいところは通り越しちまったの。嘘《うそ》をおっしゃい」
「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」
「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」
「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」
「時にあなた御いくつ?」
「もうたくさんです」
「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に淡泊《さっぱり》とおっしゃいよ」
「じゃ申し上げます。実は三十です」
「すると来年はもう一ね」
「順に行けばまあそうなる勘定《かんじょう》です」
「お延さんは?」
「あいつは三です」
「来年?」
「いえ今年」

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