2008年11月13日木曜日

三十六

 不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれるほどの酔が廻っていなかった。同化の埒外《らちがい》からこの興奮状態を眺める彼の眼はついに批判的であった。彼は小林を泣かせるものが酒であるか、叔父であるかを疑った。ドストエヴスキであるか、日本の下層社会であるかを疑った。そのどっちにしたところで、自分とあまり交渉のない事もよく心得ていた。彼はつまらなかった。また不安であった。感激家によって彼の前にふり落された涙の痕《あと》を、ただ迷惑そうに眺めた。
 探偵《たんてい》として物色《ぶっしょく》された男は、懐《ふところ》からまた薄い手帳を出して、その中へ鉛筆で何かしきりに書きつけ始めた。猫のように物静かでありながら、猫のようにすべてを注意しているらしい彼の挙動が、津田を変な気持にした。けれども小林の酔は、もうそんなところを通り越していた。探偵などはまるで眼中になかった。彼は新調の背広《せびろ》の腕をいきなり津田の鼻の先へ持って来た。
「君は僕が汚ない服装《なり》をすると、汚ないと云って軽蔑《けいべつ》するだろう。またたまに綺麗《きれい》な着物を着ると、今度は綺麗だと云って軽蔑するだろう。じゃ僕はどうすればいいんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。後生《ごしょう》だから教えてくれ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」
 津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。不思議にもその腕には抵抗力がなかった。最初の勢が急にどこかへ抜けたように、おとなしく元の方角へ戻って行った。けれども彼の口は彼の腕ほど素直ではなかった。手を引込ました彼はすぐ口を開いた。
「僕は君の腹の中をちゃんと知ってる。君は僕がこれほど下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんか拵《こしら》えたので、それを矛盾だと云って笑う気だろう」
「いくら貧乏だって、洋服の一着ぐらい拵えるのは当り前だよ。拵えなけりゃ赤裸《はだか》で往来を歩かなければなるまい。拵えたって結構じゃないか。誰も何とも思ってやしないよ」
「ところがそうでない。君は僕をただめかすんだと思ってる。お洒落《しゃれ》だと解釈している。それが悪い」
「そうか。そりゃ悪かった」
 もうやりきれないと観念した津田は、とうとう降参の便利を悟ったので、好い加減に調子を合せ出した。すると小林の調子も自然と変って来た。
「いや僕も悪い。悪かった。僕にも洒落気《しゃれけ》はあるよ。そりゃ僕も充分認める。認めるには認めるが、僕がなぜ今度この洋服を作ったか、その訳を君は知るまい」
 そんな特別の理由を津田は固《もと》より知ろうはずがなかった。また知りたくもなかった。けれども行きがかり上|訊《き》いてやらない訳にも行かなかった。両手を左右へひろげた小林は、自分で自分の服装《なり》を見廻しながら、むしろ心細そうに答えた。
「実はこの着物で近々《きんきん》都落《みやこおち》をやるんだよ。朝鮮へ落ちるんだよ」
 津田は始めて意外な顔をして相手を見た。ついでに先刻《さっき》から苦になっていた襟飾《えりかざり》の横っちょに曲っているのを注意して直させた後で、また彼の話を聴きつづけた。
 長い間叔父の雑誌の編輯《へんしゅう》をしたり、校正をしたり、その間には自分の原稿を書いて、金をくれそうな所へ方々持って廻ったりして、始終《しじゅう》忙がしそうに見えた彼は、とうとう東京にいたたまれなくなった結果、朝鮮へ渡って、そこの或新聞社へ雇われる事に、はぼ相談がきまったのであった。
「こう苦しくっちゃ、いくら東京に辛防《しんぼう》していたって、仕方がないからね。未来のない所に住んでるのは実際|厭《いや》だよ」
 その未来が朝鮮へ行けば、あらゆる準備をして自分を待っていそうな事をいう彼は、すぐまた前言を取り消すような口も利《き》いた。
「要するに僕なんぞは、生涯《しょうがい》漂浪《ひょうろう》して歩く運命をもって生れて来た人間かも知れないよ。どうしても落ちつけないんだもの。たとい自分が落ちつく気でも、世間が落ちつかせてくれないから残酷だよ。駈落者《かけおちもの》になるよりほかに仕方がないじゃないか」
「落ちつけないのは君ばかりじゃない。僕だってちっとも落ちついていられやしない」
「もったいない事をいうな。君の落ちつけないのは贅沢《ぜいたく》だからさ。僕のは死ぬまで麺麭《パン》を追《おっ》かけて歩かなければならないんだから苦しいんだ」
「しかし落ちつけないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりじゃないよ」
 小林は津田の言葉から何らの慰藉《いしゃ》を受ける気色《けしき》もなかった。

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