2008年11月13日木曜日

二十八

 奥の四畳半で先刻《さっき》からお金《きん》さんに学課の復習をして貰《もら》っていた真事《まこと》が、突然お金さんにはまるで解らない仏蘭西語《フランスご》の読本を浚《さら》い始めた。ジュ・シュイ・ポリ、とか、チュ・エ・マラード、とか、一字一字の間にわざと長い句切《くぎり》を置いて読み上げる小学二年生の頓狂《とんきょう》な声を、例《いつも》ながらおかしく聞いている津田の頭の上で、今度は柱時計がボンボンと鳴った。彼はすぐ袂《たもと》に入れてあるリチネを取り出して、飲みにくそうに、どろどろした油の色を眺めた。すると、客間でも時計の音に促《うな》がされたような叔父の声がした。
「じゃあっちへ行こう」
 叔父と小林は縁伝いに茶の間へ入って来た。津田はちょっと居住居《いずまい》を直して叔父に挨拶《あいさつ》をしたあとで、すぐ小林の方を向いた。
「小林君だいぶ景気が好いようだね。立派な服を拵《こしら》えたじゃないか」
 小林はホームスパンみたようなざらざらした地合《じあい》の背広《せびろ》を着ていた。いつもと違ってその洋袴《ズボン》の折目がまだ少しも崩《くず》れていないので、誰の眼にも仕立卸《したておろ》しとしか見えなかった。彼は変り色の靴下を後《うしろ》へ隠すようにして、津田の前に坐《すわ》り込んだ。
「へへ、冗談《じょうだん》云っちゃいけない。景気の好いのは君の事だ」
 彼の新調はどこかのデパートメント・ストアの窓硝子《まどガラス》の中に飾ってある三《み》つ揃《ぞろい》に括《くく》りつけてあった正札を見つけて、その価段《ねだん》通りのものを彼が注文して拵えたのであった。
「これで君二十六円だから、ずいぶん安いものだろう。君見たいな贅沢《ぜいたく》やから見たらどうか知らないが、僕なんぞにゃこれでたくさんだからね」
 津田は叔母の手前重ねて悪口《わるくち》を云う勇気もなかった。黙って茶碗《ちゃわん》を借り受けて、八の字を寄せながらリチネを飲んだ。そこにいるものがみんな不思議そうに彼の所作《しょさ》を眺めた。
「何だいそれは。変なものを飲むな。薬かい」

 今日《こんにち》まで病気という病気をした例《ためし》のない叔父の医薬に対する無知はまた特別のものであった。彼はリチネという名前を聞いてすら、それが何のために服用されるのか知らなかった。あらゆる疾病《しっぺい》とほとんど没交渉なこの叔父の前に、津田が手術だの入院だのという言葉を使って、自分の現在を説明した時に、叔父は少しも感動しなかった。
「それでその報知にわざわざやって来た訳かね」
 叔父は御苦労さまと云わぬばかりの顔をして、胡麻塩《ごましお》だらけの髯《ひげ》を撫《な》でた。生やしていると云うよりもむしろ生えていると云った方が適当なその髯は、植木屋を入れない庭のように、彼の顔をところどころ爺々《じじ》むさく見せた。
「いったい今の若いものは、から駄目だね。下らん病気ばかりして」
 叔母は津田の顔を見てにやりと笑った。近頃急に「今の若いものは」という言葉を、癖のように使い出した叔父の歴史を心得ている津田も笑い返した。よほど以前この叔父から惑病《わくびょう》は同源《どうげん》だの疾患は罪悪だのと、さも偉そうに云い聞かされた事を憶《おも》い出すと、それが病気に罹《かか》らない自分の自慢とも受け取れるので、なおのこと滑稽《こっけい》に感ぜられた。彼は薄笑いと共にまた小林の方を見た。小林はすぐ口を出した。けれども津田の予期とは全くの反対を云った。
「何今の若いものだって病気をしないものもあります。現に私《わたくし》なんか近頃ちっとも寝た事がありません。私考えるに、人間は金が無いと病気にゃ罹《かか》らないもんだろうと思います」
 津田は馬鹿馬鹿しくなった。
「つまらない事をいうなよ」
「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」
 この不論理《ふろんり》な断案は、云い手が真面目《まじめ》なだけに、津田をなお失笑させた。すると今度は叔父が賛成した。
「そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにもやり切れないからね」
 薄暗くなった室《へや》の中で、叔父の顔が一番薄暗く見えた。津田は立って電灯のスウィッチを捩《ねじ》った。

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