2008年11月13日木曜日

三十七

 先刻《さっき》から二人の様子を眺めていた下女が、いきなり来て、わざとらしく食卓《テーブル》の上を片づけ始めた。それを相図のように、インヴァネスを着た男がすうと立ち上った。疾《と》うに酒をやめて、ただ話ばかりしていた二人も澄ましている訳に行かなかった。津田は機会を捉《とら》えてすぐ腰を上げた。小林は椅子を離れる前に、まず彼らの間に置かれたM・C・C・の箱を取った。そうしてその中からまた新らしい金口《きんぐち》を一本出してそれに火を点《つ》けた。行きがけの駄賃《だちん》らしいこの所作《しょさ》が、煙草《たばこ》の箱を受け取って袂《たもと》へ入れる津田の眼を、皮肉に擽《くす》ぐったくした。
 時刻はそれほどでなかったけれども、秋の夜《よ》の往来は意外に更《ふ》けやすかった。昼は耳につかない一種の音を立てて電車が遠くの方を走っていた。別々の気分に働らきかけられている二人の黒い影が、まだ離れずに河の縁《ふち》をつたって動いて行った。
「朝鮮へはいつ頃行くんだね」
「ことによると君の病院へ入《は》いっているうちかも知れない」
「そんなに急に立つのか」
「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと、判然《はっきり》した事は分らないんだ」
「立つ日がかい、あるいは行く事がかい」
「うん、まあ――」
 彼の返事は少し曖昧《あいまい》であった。津田がそれを追究《ついきゅう》もしないで、さっさと行き出した時、彼はまた云い直した。
「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」
「藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい」
「なにそうでもないんだ」
「じゃ止《よ》したらいいじゃないか」
 津田の言葉は誰にでも解り切った理窟《りくつ》なだけに、同情に飢《う》えていそうな相手の気分を残酷に射貫《いぬ》いたと一般であった。数歩の後《のち》、小林は突然津田の方を向いた。
「津田君、僕は淋《さむ》しいよ」
 津田は返事をしなかった。二人はまた黙って歩いた。浅い河床《かわどこ》の真中を、少しばかり流れている水が、ぼんやり見える橋杭《はしぐい》の下で黒く消えて行く時、幽《かす》かに音を立てて、電車の通る相間《あいま》相間に、ちょろちょろと鳴った。
「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」
「じゃ行くさ」
「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ」
 彼の語気は癇走《かんばし》っていた。津田は急に穏やかな調子を使う必要を感じた。
「あんまりそう悲観しちゃいけないよ。年歯《とし》さえ若くって身体《からだ》さえ丈夫なら、どこへ行ったって立派に成効《せいこう》できるじゃないか。――君が立つ前一つ送別会を開こう、君を愉快にするために」
 今度は小林の方がいい返事をしなかった。津田は重ねて跋《ばつ》を合せる態度に出た。
「君が行ったらお金《きん》さんの結婚する時困るだろう」
 小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津田を見た。
「うん、あいつも可哀相《かわいそう》だけれども仕方がない。つまりこんなやくざな兄貴《あにき》をもったのが不仕合せだと思って、諦《あき》らめて貰うんだ」
「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう」
「まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。でなければこの結婚を断って、いつまでも下女代りに、先生の宅《うち》で使って貰うんだが、――そいつはまあどっちにしたって同じようなもんだろう。それより僕はまだ先生に気の毒な事があるんだ。もし行くとなると、先生から旅費を借りなければならないからね」
「向うじゃくれないのか」
「くれそうもないな」
「どうにかして出させたら好いだろう」
「さあ」
 一分ばかりの沈黙を破った時、彼はまた独《ひと》り言《ごと》のように云った。
「旅費は先生から借りる、外套《がいとう》は君から貰う、たった一人の妹は置《お》いてき堀《ぼり》にする、世話はないや」
 これがその晩小林の口から出た最後の台詞《せりふ》であった。二人はついに分れた。津田は後《あと》をも見ずにさっさと宅の方へ急いだ。

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