2008年11月13日木曜日

 角《かど》を曲って細い小路《こうじ》へ這入《はい》った時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白い繊《ほそ》い手を額の所へ翳《かざ》すようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐ傍《そば》へ寄って来るまでその態度を改めなかった。
「おい何を見ているんだ」
 細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
「ああ吃驚《びっくり》した。――御帰り遊ばせ」
 同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注《そそ》ぎかけた。それから心持腰を曲《かが》めて軽い会釈《えしゃく》をした。
 半《なか》ば細君の嬌態《きょうたい》に応じようとした津田は半《なか》ば逡巡《しゅんじゅん》して立ち留まった。
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれ雀《すずめ》よ。雀が御向うの宅《うち》の二階の庇《ひさし》に巣を食ってるんでしょう」
 津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
「洋杖《ステッキ》」
 津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関の格子戸《こうしど》を開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫の後《あと》に跟《つ》いて沓脱《くつぬぎ》から上《あが》った。
 夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が火鉢《ひばち》の前に坐《すわ》るか坐らないうちに、また勝手の方から石鹸入《しゃぼんいれ》を手拭《てぬぐい》に包んで持って出た。
「ちょっと今のうち一風呂《ひとふろ》浴びていらっしゃい。またそこへ坐り込むと臆劫《おっくう》になるから」
 津田は仕方なしに手を出して手拭《てぬぐい》を受取った。しかしすぐ立とうとはしなかった。
「湯は今日はやめにしようかしら」
「なぜ。――さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」
 津田は仕方なしにまた立ち上った。室《へや》を出る時、彼はちょっと細君の方をふり返った。
「今日帰りに小林さんへ寄って診《み》て貰って来たよ」
「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもう癒《なお》ってるんでしょう」
「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」
 津田はこう云ったなり、後《あと》を聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。
 同じ話題が再び夫婦の間《あいだ》に戻って来たのは晩食《ゆうめし》が済んで津田がまだ自分の室へ引き取らない宵《よい》の口《くち》であった。
「厭《いや》ね、切るなんて、怖《こわ》くって。今までのようにそっとしておいたってよかないの」
「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」
「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」
 細君は濃い恰好《かっこう》の好い眉《まゆ》を心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたように訊《き》いた。
「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」
 細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。
「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」
「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものを断《ことわ》っちゃ」
「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」
「でもあたし行きたいんですもの」
「御前は行きたければおいでな」
「だからあなたもいらっしゃいな、ね。御厭《おいや》?」
 津田は細君の顔を見て苦笑を洩《も》らした。

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