2008年11月11日火曜日

九十

 時間はいつか十二時を過ぎていた。お延はまたお時の給仕で独《ひと》り膳《ぜん》に向った。それは津田の会社へ出た留守に、二人が毎日繰り返す日課にほかならなかった。けれども今日のお延はいつものお延ではなかった。彼女の様子は剛張《こわば》っていた。そのくせ心は纏《まと》まりなく動いていた。先刻《さっき》出かけようとして着換えた着物まで、平生《ふだん》と違ったよそゆきの気持を余分に添える媒介《なかだち》となった。
 もし今の自分に触れる問題が、お時の口から洩《も》れなかったなら、お延はついに一言《ひとこと》も云わずに、食事を済ましてしまったかも知れなかった。その食事さえ、実を云うと、まるで気が進まなかったのを、お時に疑ぐられるのが厭《いや》さに、ほんの形式的に片づけようとして、膳に着いただけであった。
 お時も何だか遠慮でもするように、わざと談話を控えていた。しかしお延が一膳で箸《はし》を置いた時、ようやく「どうか遊ばしましたか」と訊《き》いた。そうしてただ「いいえ」という返事を受けた彼女は、すぐ膳を引いて勝手へ立たなかった。
「どうもすみませんでした」
 彼女は自分の専断で病院へ行った詫《わび》を述べた。お延はお延でまた彼女に尋ねたい事があった。
「先刻はずいぶん大きな声を出したでしょう。下女部屋の方まで聞こえたかい」
「いいえ」
 お延は疑《うたぐ》りの眼をお時の上に注いだ。お時はそれを避けるようにすぐ云った。
「あのお客さまは、ずいぶん――」
 しかしお延は何にも答えなかった。静かに後を待っているだけなので、お時は自分の方で後をつけなければならなかった。二人の談話はこれが緒口《いとくち》で先へ進んだ。
「旦那様《だんなさま》は驚ろいていらっしゃいました。ずいぶんひどい奴《やつ》だって。こっちから取りに来いとも何とも云わないのに、断りもなく奥様と直談判《じきだんぱん》を始めたり何かして、しかも自分が病院に入っている事をよく承知している癖にって」
 お延は軽蔑《さげす》んだ笑いを微《かす》かに洩《も》らした。しかし自分の批評は加えなかった。
「まだほかに何かおっしゃりゃしなかったかい」
「外套だけやって早く返せっておっしゃいました。それから奥さんと話しをしているかと御訊《おき》きになりますから、話しをしていらっしゃいますと申し上げましたら、大変|厭《いや》な顔をなさいました」
「そうかい。それぎりかい」
「いえ、何を話しているのかと御訊きになりました」
「それでお前は何とお答えをしたの」
「別にお答えをしようがございませんから、それは存じませんと申し上げました」
「そうしたら」
「そうしたら、なお厭な顔をなさいました。いったい座敷なんかへむやみに上り込ませるのが間違っている――」
「そんな事をおっしゃったの。だって昔からのお友達なら仕方がないじゃないの」
「だから私もそう申し上げたのでございました。それに奥さまはちょうどお召換《めしかえ》をしていらっしゃいましたので、すぐ玄関へおでになる訳に行かなかったのだからやむをえませんて」
「そう。そうしたら」
「そうしたら、お前はもと岡本さんにいただけあって、奥さんの事というと、何でも熱心に弁護するから感心だって、冷評《ひや》かされました」
 お延は苦笑した。
「どうも御気の毒さま。それっきり」
「いえ、まだございます。小林は酒を飲んでやしなかったかとお訊きになるんです。私はよく気がつきませんでしたけれども、お正月でもないのに、まさか朝っぱらから酔払って、他《ひと》の家《うち》へお客にいらっしゃる方もあるまいと思いましたから、――」
「酔っちゃいらっしゃらないと云ったの」
「ええ」
 お延はまだ後があるだろうという様子を見せた。お時は果して話をそこで切り上げなかった。
「奥さま、あの旦那様が、帰ったらよく奥さまにそう云えとおっしゃいました」
「なんと」
「あの小林って奴は何をいうか分らない奴だ、ことに酔うとあぶない男だ。だから、あいつが何を云ってもけっして取り合っちゃいけない。まあみんな嘘《うそ》だと思っていれば間違はないんだからって」
「そう」
 お延はこれ以上何も云う気にならなかった。お時は一人でげらげら笑った。
「堀の奥さまも傍《そば》で笑っていらっしゃいました」
 お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に来ていた事を知った。

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