2008年11月13日木曜日

三十四

 順路からいうと、津田はそこを右へ折れ、小林は真直《まっすぐ》に行かなければならなかった。しかし体《てい》よく分れようとして帽子へ手をかけた津田の顔を、小林は覗《のぞ》き込むように見て云った。
「僕もそっちへ行くよ」
 彼らの行く方角には飲み食いに都合のいい町が二三町続いていた。その中程にある酒場《バー》めいた店の硝子戸《ガラスど》が、暖かそうに内側から照らされているのを見つけた時、小林はすぐ立ちどまった。
「ここが好い。ここへ入ろう」
「僕は厭だよ」
「君の気に入りそうな上等の宅《うち》はここいらにないんだから、ここで我慢しようじゃないか」
「僕は病気だよ」
「構わん、病気の方は僕が受け合ってやるから、心配するな」
「冗談《じょうだん》云うな。厭《いや》だよ」
「細君には僕が弁解してやるからいいだろう」
 面倒になった津田は、小林をそこへ置き去りにしたまま、さっさと行こうとした。すると彼とすれすれに歩を移して来た小林が、少し改まった口調《くちょう》で追究《ついきゅう》した。
「そんなに厭か、僕といっしょに酒を飲むのは」
 実際そんなに厭であった津田は、この言葉を聞くとすぐとまった。そうして自分の傾向とはまるで反対な決断を外部《そと》へ現わした。
「じゃ飲もう」
 二人はすぐ明るい硝子戸《ガラスど》を引いて中へ入った。客は彼らのほかに五六人いたぎりであったが、店があまり広くないので、比較的込み合っているように見えた。割合楽に席の取れそうな片隅《かたすみ》を択《えら》んで、差し向いに腰をおろした二人は、通した注文の来る間、多少物珍らしそうな眼を周囲《あたり》へ向けた。
 服装から見た彼らの相客中《あいきゃくちゅう》に、社会的地位のありそうなものは一人もなかった。湯帰りと見えて、縞《しま》の半纏《はんてん》の肩へ濡《ぬ》れ手拭《てぬぐい》を掛けたのだの、木綿物《もめんもの》に角帯《かくおび》を締《し》めて、わざとらしく平打《ひらうち》の羽織の紐《ひも》の真中へ擬物《まがいもの》の翡翠《ひすい》を通したのだのはむしろ上等の部であった。ずっとひどいのは、まるで紙屑買としか見えなかった。腹掛《はらがけ》股引《ももひき》も一人|交《まじ》っていた。
「どうだ平民的でいいじゃないか」
 小林は津田の猪口《ちょく》へ酒を注《つ》ぎながらこう云った。その言葉を打ち消すような新調したての派出《はで》な彼の背広《せびろ》が、すぐことさららしく津田の眼に映ったが、彼自身はまるでそこに気がついていないらしかった。
「僕は君と違ってどうしても下等社界の方に同情があるんだからな」
 小林はあたかもそこに自分の兄弟分でも揃《そろ》っているような顔をして、一同を見廻した。
「見たまえ。彼らはみんな上流社会より好い人相をしているから」
 挨拶《あいさつ》をする勇気のなかった津田は、一同を見廻す代りに、かえって小林を熟視した。小林はすぐ譲歩した。
「少くとも陶然《とうぜん》としているだろう」
「上流社会だって陶然とするからな」
「だが陶然としかたが違うよ」
 津田は昂然《こうぜん》として両者の差違を訊《き》かなかった。それでも小林は少しも悄気《しょげ》ずに、ぐいぐい杯《さかずき》を重ねた。
「君はこういう人間を軽蔑《けいべつ》しているね。同情に価《あたい》しないものとして、始めから見くびっているんだ」
 こういうや否や、彼は津田の返事も待たずに、向うにいる牛乳配達見たような若ものに声をかけた。
「ねえ君。そうだろう」
 出し抜けに呼びかけられた若者は倔強《くっきょう》な頸筋《くびすじ》を曲げてちょっとこっちを見た。すると小林はすぐ杯《さかずき》をそっちの方へ出した。
「まあ君一杯飲みたまえ」
 若者はにやにやと笑った。不幸にして彼と小林との間には一間ほどの距離があった。立って杯を受けるほどの必要を感じなかった彼は、微笑するだけで動かなかった。しかしそれでも小林には満足らしかった。出した杯を引込めながら、自分の口へ持って行った時、彼はまた津田に云った。
「そらあの通りだ。上流社会のように高慢ちきな人間は一人もいやしない」

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