2008年11月13日木曜日

四十三

 診察室を出るとき、後《うしろ》から随《つ》いて来た看護婦が彼に訊《き》いた。
「いかがです。気分のお悪いような事はございませんか」
「いいえ。――蒼《あお》い顔でもしているかね」
 自分自身に多少|懸念《けねん》のあった津田はこう云って訊《き》き返さなければならなかった。
 創口《きずぐち》にできるだけ多くのガーゼを詰め込まれた彼の感じは、他《ひと》が想像する倍以上に重苦しいものであった。彼は仕方なしにのそのそ歩いた。それでも階子段《はしごだん》を上《あが》る時には、割《さ》かれた肉とガーゼとが擦《こす》れ合《あ》ってざらざらするような心持がした。
 お延は階段の上に立っていた。津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。
「済んだの? どうして?」
 津田ははっきりした返事も与えずに室《へや》の中に這入《はい》った。そこには彼の予期通り、白いシーツに裹《つつ》まれた蒲団《ふとん》が、彼の安臥《あんが》を待つべく長々と延べてあった。羽織を脱ぎ捨てるが早いか、彼はすぐその上へ横になった。鼠地《ねずみじ》のネルを重ねた銘仙《めいせん》の褞袍《どてら》を後《うしろ》から着せるつもりで、両手で襟《えり》の所を持ち上げたお延は、拍子抜《ひょうしぬ》けのした苦笑と共に、またそれを袖畳《そでだた》みにして床《とこ》の裾《すそ》の方に置いた。
「お薬はいただかなくっていいの」
 彼女は傍《そば》にいる看護婦の方を向いて訊《き》いた。
「別に内用のお薬は召し上らないでも差支《さしつか》えないのでございます。お食事の方はただいま拵《こしら》えてこちらから持って参ります」
 看護婦は立ちかけた。黙って寝ていた津田は急に口を開いた。
「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう」
「そうね」
 お延は躊躇《ちゅうちょ》した。
「あたしどうしようかしら」
「だって、もう昼過だろう」
「ええ。十二時二十分よ。あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね」
 時計の葢《ふた》を開けたお延は、それを眺めながら精密な時間を云った。津田が手術台の上で俎《まないた》へ乗せられた魚のように、おとなしく我慢している間、お延はまた彼の見つめなければならなかった天井《てんじょう》の上で、時計と睨《にら》めっ競《くら》でもするように、手術の時間を計っていたのである。
 津田は再び訊《き》いた。
「今から宅《うち》へ帰ったって仕方がないだろう」
「ええ」
「じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか」
「ええ」
 お延の返事はいつまで経《た》っても捗々《はかばか》しくなかった。看護婦はとうとう下へ降りて行った。津田は疲れた人が光線の刺戟《しげき》を避けるような気分で眼をねむった。するとお延が頭の上で、「あなた、あなた」というので、また眼を開《あ》かなければならなかった。
「心持が悪いの?」
「いいや」
 念を押したお延はすぐ後《あと》を云った。
「岡本でよろしくって。いずれそのうち御見舞に上《あが》りますからって」
「そうか」
 津田は軽い返事をしたなり、また眼をつぶろうとした。するとお延がそうさせなかった。
「あの岡本でね、今日是非芝居へいっしょに来いって云うんですが、行っちゃいけなくって」
 気のよく廻る津田の頭に、今朝からのお延の所作《しょさ》が一度に閃《ひら》めいた。病院へ随《つ》いて来るにしては派出過《はです》ぎる彼女の衣裳《いしょう》といい、出る前に日曜だと断った彼女の注意といい、ここへ来てから、そわそわして岡本へ電話をかけた彼女の態度といい、ことごとく芝居の二字に向って注《そそ》ぎ込《こ》まれているようにも取れた。そういう眼で見ると、手術の時間を精密に計った彼女の動機さえ疑惑の種にならないではすまなかった。津田は黙って横を向いた。床《とこ》の間《ま》の上に取り揃《そろ》えて積み重ねてある、封筒だの書翰用紙《しょかんようし》だの鋏《はさみ》だの書物だのが彼の眼についた。それは先刻《さっき》鞄《かばん》へ入れて彼がここへ持って来たものであった。
「看護婦に小さい机を借りて、その上へ載せようと思ったんですけれども、まだ持って来てくれないから、しばらくの間、ああしておいたのよ。本でも御覧になって」
 お延はすぐ立って床の間から書物をおろした。

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