2008年11月13日木曜日

十五

 西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机の抽斗《ひきだし》からラヴェンダー色の紙と封筒とを取り出して、その紙の上へ万年筆で何心なく二三行書きかけた時、ふと気がついた。彼の父は洋筆《ペン》や万年筆でだらしなく綴《つづ》られた言文一致の手紙などを、自分の伜《せがれ》から受け取る事は平生《ひごろ》からあまり喜こんでいなかった。彼は遠くにいる父の顔を眼の前に思い浮べながら、苦笑して筆を擱《お》いた。手紙を書いてやったところでとうてい効能《ききめ》はあるまいという気が続いて起った。彼は木炭紙に似たざらつく厚い紙の余りへ、山羊髯《やぎひげ》を生やした細面《ほそおもて》の父の顔をいたずらにスケッチして、どうしようかと考えた。
 やがて彼は決心して立ち上った。襖《ふすま》を開けて、二階の上《あが》り口《ぐち》の所に出て、そこから下にいる細君を呼んだ。
「お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるならちょいとお貸し」
「日本の?」
 細君の耳にはこの形容詞が変に滑稽《こっけい》に聞こえた。
「女のならあるわ」
 津田はまた自分の前に粋《いき》な模様入の半切《はんきれ》を拡《ひろ》げて見た。
「これなら気に入るかしら」
「中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの」
「そうは行かないよ。御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね」
 津田は真面目《まじめ》な顔をしてなお半切を見つめていた。お延の口元には薄笑いの影が差《さ》した。
「時《とき》をちょいと買わせにやりましょうか」
「うん」
 津田は生返事《なまへんじ》をした。白い巻紙と無地の封筒さえあれば、必ず自分の希望が成功するという訳にも行かなかった。
「待っていらっしゃい。じきだから」
 お延はすぐ下へ降りた。やがて潜《くぐ》り戸《ど》が開《あ》いて下女の外へ出る足音が聞こえた。津田は必要の品物が自分の手に入るまで、何もせずに、ただ机の前に坐って煙草《たばこ》を吹かした。
 彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐ上方《かみがた》の悪口《わるくち》を云いたがる癖に、いつか永住の目的をもって京都に落ちついてしまった。彼がその土地を余り好まない母に同情して多少不賛成の意を洩《も》らした時、父は自分で買った土地と自分が建てた家とを彼に示して、「これをどうする気か」と云った。今よりもまだ年の若かった彼は、父の言葉の意味さえよく解らなかった。所置はどうでもできるのにと思った。父は時々彼に向って、「誰のためでもない、みんな御前のためだ」と云った。「今はそのありがた味《み》が解らないかも知れないが、おれが死んで見ろ、きっと解る時が来るから」とも云った。彼は頭の中で父の言葉と、その言葉を口にする時の父の態度とを描き出した。子供の未来の幸福を一手《いって》に引き受けたような自信に充《み》ちたその様子が、近づくべからざる予言者のように、彼には見えた。彼は想像の眼で見る父に向って云いたくなった。
「御父さんが死んだ後《あと》で、一度に御父さんのありがた味が解るよりも、お父さんが生きているうちから、毎月《まいげつ》正確にお父さんのありがた味が少しずつ解る方が、どのくらい楽だか知れやしません」
 彼が父の機嫌《きげん》を損《そこね》ないような巻紙の上へ、なるべく金を送ってくれそうな文句を、堅苦しい候文で認《したた》め出したのは、それから約十分|後《ご》であった。彼はぎごちない思いをして、ようやくそれを書き上げた後《あと》で、もう一遍読み返した時に、自分の字の拙《まず》い事につくづく愛想《あいそ》を尽かした。文句はとにかく、こんな字ではとうてい成功する資格がないようにも思った。最後に、よし成功しても、こっちで要《い》る期日までに金はとても来ないような気がした。下女にそれを投函《とうかん》させた後《あと》、彼は黙って床の中へ潜《もぐ》り込みながら、腹の中で云った。
「その時はその時の事だ」

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