2008年11月12日水曜日

六十二

 親身《しんみ》の叔母よりもかえって義理の叔父の方を、心の中で好いていたお延は、その報酬として、自分もこの叔父から特別に可愛《かわい》がられているという信念を常にもっていた。洒落《しゃらく》でありながら神経質に生れついた彼の気合《きあい》をよく呑み込んで、その両面に行き渡った自分の行動を、寸分|違《たが》わず叔父の思い通りに楽々と運んで行く彼女には、いつでも年齢《とし》の若さから来る柔軟性が伴っていたので、ほとんど苦痛というものなしに、叔父を喜こばし、また自分に満足を与える事ができた。叔父が鑑賞の眼を向けて、常に彼女の所作《しょさ》を眺めていてくれるように考えた彼女は、時とすると、変化に乏しい叔母の骨はどうしてあんなに堅いのだろうと怪しむ事さえあった。
 いかにして異性を取り扱うべきかの修養を、こうして叔父からばかり学んだ彼女は、どこへ嫁に行っても、それをそのまま夫に応用すれば成効《せいこう》するに違ないと信じていた。津田といっしょになった時、始めて少し勝手の違うような感じのした彼女は、この生れて始めての経験を、なるほどという眼つきで眺めた。彼女の努力は、新らしい夫を叔父のような人間に熟《こな》しつけるか、またはすでに出来上った自分の方を、新らしい夫に合うように改造するか、どっちかにしなければならない場合によく出合った。彼女の愛は津田の上にあった。しかし彼女の同情はむしろ叔父型の人間に注《そそ》がれた。こんな時に、叔父なら嬉《うれ》しがってくれるものをと思う事がしばしば出て来た。すると自然の勢いが彼女にそれを逐一《ちくいち》叔父に話してしまえと命令した。その命令に背《そむ》くほど意地の強い彼女は、今までどうかこうか我慢して通して来たものを、今更告白する気にはとてもなれなかった。
 こうして叔父夫婦を欺《あざ》むいてきたお延には、叔父夫婦がまた何の掛念《けねん》もなく彼女のために騙《だま》されているという自信があった。同時に敏感な彼女は、叔父の方でもまた彼女に打ち明けたくって、しかも打ち明けられない、津田に対する、自分のと同程度ぐらいなある秘密をもっているという事をよく承知していた。有体《ありてい》に見透《みすか》した叔父の腹の中を、お延に云わせると、彼はけっして彼女に大切な夫としての津田を好いていなかったのである。それが二人の間に横《よこた》わる気質の相違から来る事は、たとい二人を比較して見た上でなくても、あまり想像に困難のかからない仮定であった。少くとも結婚後のお延はじきそこに気がついた。しかし彼女はまだその上に材料をもっていた。粗放のようで一面に緻密《ちみつ》な、無頓着《むとんじゃく》のようで同時に鋭敏な、口先は冷淡でも腹の中には親切気のあるこの叔父は、最初会見の当時から、すでに直観的に津田を嫌《きら》っていたらしかった。「お前はああいう人が好きなのかね」と訊《き》かれた裏側に、「じゃおれのようなものは嫌《きらい》だったんだね」という言葉が、ともに響いたらしく感じた時、お延は思わずはっとした。しかし「叔父さんの御意見は」とこっちから問い返した時の彼は、もうその気下味《きまず》い関《せき》を通り越していた。
「おいでよ、お前さえ行く気なら、誰にも遠慮は要《い》らないから」と親切に云ってくれた。
 お延の材料はまだ一つ残っていた。自分に対して何にも云わなかった叔父の、津田に関するもっと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事ができたのである。
「あの男は日本中の女がみんな自分に惚《ほ》れなくっちゃならないような顔つきをしているじゃないか」
 不思議にもこの言葉はお延にとって意外でも何でもなかった。彼女には自分が津田を精一杯《せいいっぱい》愛し得るという信念があった。同時に、津田から精一杯愛され得るという期待も安心もあった。また叔父の例の悪口《わるくち》が始まったという気が何より先に起ったので、彼女は声を出して笑った。そうして、この悪口はつまり嫉妬《しっと》から来たのだと一人腹の中で解釈して得意になった。叔母も「自分の若い時の己惚《おのぼれ》は、もう忘れているんだからね」と云って、彼女に相槌《あいづち》を打ってくれた。……
 叔父の前に坐ったお延は自分の後《うしろ》にあるこんな過去を憶《おも》い出さない訳に行かなかった。すると「厳格」な津田の妻として、自分が向くとか向かないとかいう下らない彼の笑談《じょうだん》のうちに、何か真面目《まじめ》な意味があるのではなかろうかという気さえ起った。
「おれの云った通りじゃないかね。なければ仕合せだ。しかし万一何かあるなら、また今ないにしたところで、これから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃいけないよ」
 お延は叔父の眼の中に、こうした慈愛の言葉さえ読んだ。

0 件のコメント: