2008年11月11日火曜日

九十七

 感情と理窟の縺《もつ》れ合《あ》った所を解《ほ》ごしながら前へ進む事のできなかった彼らは、どこまでもうねうね歩いた。局所に触るようなまた触らないような双方の態度が、心のうちで双方を焦烈《じれ》ったくした。しかし彼らは兄妹《きょうだい》であった。二人共ねちねちした性質を共通に具えていた。相手の淡泊《さっぱり》しないところを暗《あん》に非難しながらも、自分の方から爆発するような不体裁《ふていさい》は演じなかった。ただ津田は兄だけに、また男だけに、話を一点に括《くく》る手際《てぎわ》をお秀より余計にもっていた。
「つまりお前は兄さんに対して同情がないと云うんだろう」
「そうじゃないわ」
「でなければお延に同情がないというんだろう。そいつはまあどっちにしたって同《おん》なじ事だがね」
「あら、嫂《ねえ》さんの事をあたし何とも云ってやしませんわ」
「要するにこの事件について一番悪いものはおれだと、結局こうなるんだろう。そりゃ今さら説明を伺わなくってもよく兄さんには解ってる。だから好いよ。兄さんは甘んじてその罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ」
「兄さんにそんな事ができて」
 お秀の兄を冷笑《あざ》けるような調子が、すぐ津田の次の言葉を喚《よ》び起《おこ》した。
「できなければ死ぬまでの事さ」
 お秀はついにきりりと緊《しま》った口元を少し緩《ゆる》めて、白い歯を微《かす》かに見せた。津田の頭には、電灯の下で光る厚帯を弄《いじ》くっているお延の姿が、再び現れた。
「いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか」
 津田にとってそれほど容易《たやす》い解決法はなかった。しかし行きがかりから云うと、これほどまた困難な自白はなかった。彼はお延の虚栄心をよく知り抜いていた。それにできるだけの満足を与える事が、また取《とり》も直《なお》さず彼の虚栄心にほかならなかった。お延の自分に対する信用を、女に大切なその一角《いっかく》において突き崩《くず》すのは、自分で自分に打撲傷《だぼくしょう》を与えるようなものであった。お延に気の毒だからという意味よりも、細君の前で自分の器量を下げなければならないというのが彼の大きな苦痛になった。そのくらいの事をと他《ひと》から笑われるようなこんな小さな場合ですら、彼はすぐ動く気になれなかった。家には現に金がある、お延に対して自己の体面を保つには有余《ありあま》るほどの金がある。のにという勝手な事実の方がどうしても先に立った。
 その上彼はどんな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった。己《おの》れを忘れるという事を非常に安っぽく見る彼は、また容易に己れを忘れる事のできない性質《たち》に父母から生みつけられていた。
「できなければ死ぬまでさ」と放《ほう》り出《だ》すように云った後で、彼はまだお秀の様子を窺《うかが》っていた。腹の中に言葉通りの断乎《だんこ》たる何物も出て来ないのが恥ずかしいとも何とも思えなかった。彼はむしろ冷やかに胸の天秤《てんびん》を働かし始めた。彼はお延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを商量《しょうりょう》した。そうしていっそ二つのうちで後の方を冒《おか》したらどんなものだろうかと考えた。それに応ずる力を充分もっていたお秀は、第一兄の心から後悔していないのを慊《あきた》らなく思った。兄の後《うしろ》に御本尊のお延が澄まして控えているのを悪《にく》んだ。夫の堀をこの事件の責任者ででもあるように見傚《みな》して、京都の父が遠廻しに持ちかけて来るのがいかにも業腹《ごうはら》であった。そんなこんなの蟠《わだか》まりから、津田の意志が充分見え透《す》いて来た後《あと》でも、彼女は容易に自分の方で積極的な好意を示す事をあえてしなかった。
 同時に、器量望みで比較的富裕な家に嫁に行ったお秀に対する津田の態度も、また一種の自尊心に充《み》ちていた。彼は成上《なりあが》りものに近いある臭味《しゅうみ》を結婚後のこの妹に見出《みいだ》した。あるいは見出したと思った。いつか兄という厳《いか》めしい具足《ぐそく》を着けて彼女に対するような気分に支配され始めた。だから彼といえども妄《みだ》りにお秀の前に頭を下げる訳には行かなかった。
 二人はそれでどっちからも金の事を云い出さなかった。そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。その煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人の拵《こし》らえかけていた局面を、一度に崩《くず》してしまったのである。

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