2008年11月12日水曜日

六十九

 ところへ何にも知らない継子《つぎこ》が、語学の稽古《けいこ》から帰って来て、ひょっくり顔を出した。
「ただいま」
 和解の心棒を失って困っていた三人は、突然それを見出《みいだ》した人のように喜こんだ。そうしてほとんど同時に挨拶《あいさつ》を返した。
「お帰んなさい」
「遅かったのね。先刻《さっき》から待ってたのよ」
「いや大変なお待兼《まちかね》だよ。継子さんはどうしたろう、どうしたろうって」
 神経質な叔父の態度は、先刻の失敗を取り戻す意味を帯びているので、平生よりは一層|快豁《かいかつ》であった。
「何でも継子さんに逢って、是非話したい事があるんだそうだ」
 こんな余計な事まで云って、自分の目的とは反対な影を、お延の上に逆《さかさ》まに投げておきながら、彼はかえって得意になっているらしかった。
 しかし下女が襖越《ふすまごし》に手を突いて、風呂の沸《わ》いた事を知らせに来た時、彼は急に思いついたように立ち上った。
「まだ湯なんかに入っちゃいられない。少し庭に用が残ってるから。――お前達先へ入るなら入るがいい」
 彼は気に入りの植木屋を相手に、残りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立った。
 けれどもいったん背中を座敷の方へ向けた後でまたふり返った。
「お延、湯に入って晩飯でも食べておいで」
 こう云って二三間歩いたかと思うと彼はまた引き返して来た。お延は頭のよく働くその世話《せわ》しない様子を、いかにも彼の特色らしく感心して眺めた。
「お延が来たから晩に藤井でも呼んでやろうか」
 職業が違っても同じ学校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との関係上、今では以前よりよほど叔父に縁の近い人であった。これも自分に対する好意からだと解釈しながら、お延は別に嬉《うれ》しいと思う気にもなれなかった。藤井一家と津田、二つのものが離れているよりも、はるか余計に、彼女は彼らより離れていた。
「しかし来るかな」といった叔父の顔は、まさにお延の腹の中を物語っていた。
「近頃みんなおれの事を隠居隠居っていうが、あの男の隠居主義と来たら、遠い昔からの事で、とうていおれなどの及ぶところじゃないんだからな。ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら、来るかい」
「そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ」
 叔母は婉曲《えんきょく》に自己を表現した。
「おおかたいらっしゃらないでしょう」
「うん、なかなかおいそれとやって来そうもないね。じゃ止《よ》すか。――だがまあ試しにちょっと掛けてみるがいい」
 お延は笑い出した。
「掛けてみるったって、あすこにゃ電話なんかありゃしないわ」
「じゃ仕方がない。使でもやるんだ」
 手紙を書くのが面倒だったのか、時間が惜しかったのか、叔父はそう云ったなりさっさと庭口の方へ歩いて行った。叔母も「じゃあたしは御免蒙《ごめんこうむ》ってお先へお湯に入ろう」と云いながら立ち上った。
 叔父の潔癖を知って、みんなが遠慮するのに、自分だけは平気で、こんな場合に、叔父の言葉通り断行して顧《かえり》みない叔母の態度は、お延にとって羨《うらや》ましいものであった。また忌《いま》わしいものであった。女らしくない厭《いや》なものであると同時に、男らしい好いものであった。ああできたらさぞ好かろうという感じと、いくら年をとってもああはやりたくないという感じが、彼女の心にいつもの通り交錯《こうさく》した。
 立って行く叔母の後姿《うしろすがた》を彼女がぼんやり目送《もくそう》していると、一人残った継子が突然誘った。
「あたしのお部屋へ来なくって」
 二人は火鉢《ひばち》や茶器で取り散らされた座敷をそのままにして外へ出た。

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