2008年11月12日水曜日

六十

 岡本の邸宅《やしき》へ着いた時、お延はまた偶然叔父の姿を玄関前に見出《みいだ》した。羽織も着ずに、兵児帯《へこおび》をだらりと下げて、その結び目の所に、後《うしろ》へ廻した両手を重ねた彼は、傍《そば》で鍬《くわ》を動かしている植木屋としきりに何か話をしていたが、お延を見るや否や、すぐ向うから声を掛けた。
「来たね。今庭いじりをやってるところだ」
 植木屋の横には、大きな通草《あけび》の蔓《つる》が巻いたまま、地面の上に投げ出されてあった。
「そいつを今その庭の入口の門の上へ這《は》わせようというんだ。ちょっと好いだろう」
 お延は網代組《あじろぐみ》の竹垣の中程にあるその茅門《かやもん》を支えている釿《ちょうな》なぐりの柱と丸太の桁《けた》を見較べた。
「へえ。あの袖垣《そでがき》の所にあったのを抜いて来たの」
「うんその代りあすこへは玉縁《たまぶち》をつけた目関垣《めせきがき》を拵《こしら》えたよ」
 近頃|身体《からだ》に暇ができて、自分の意匠《いしょう》通り住居《すまい》を新築したこの叔父の建築に関する単語は、いつの間にか急に殖《ふ》えていた。言葉を聴いただけではとても解らないその目関垣というものを、お延はただ「へえ」と云って応答《あしら》っているよりほかに仕方がなかった。
「食後の運動には好いわね。お腹《なか》が空《す》いて」
「笑談《じょうだん》じゃない、叔父さんはまだ午飯前《ひるめしまえ》なんだ」
 お延を引張って、わざわざ庭先から座敷へ上った叔父は「住《すみ》、住」と大きな声で叔母を呼んだ。
「腹が減って仕方がない、早く飯にしてくれ」
「だから先刻《さっき》みんなといっしょに召上《めしや》がれば好いのに」
「ところが、そう勝手元の御都合のいいようにばかりは参らんです、世の中というものはね。第一|物《もの》に区切《くぎり》のあるという事をあなたは御承知ですか」
 自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の挨拶《あいさつ》も相変らずであった。久しぶりで故郷の空気を吸ったような感じのしたお延は、心のうちで自分の目の前にいるこの一対《いっつい》の老夫婦と、結婚してからまだ一年と経《た》たない、云わば新生活の門出《かどで》にある彼ら二人とを比較して見なければならなかった。自分達も長《なが》の月日さえ踏んで行けば、こうなるのが順当なのだろうか、またはいくら永くいっしょに暮らしたところで、性格が違えば、互いの立場も末始終《すえしじゅう》まで変って行かなければならないのか、年の若いお延には、それが智恵と想像で解けない一種の疑問であった。お延は今の津田に満足してはいなかった。しかし未来の自分も、この叔母のように膏気《あぶらけ》が抜けて行くだろうとは考えられなかった。もしそれが自分の未来に横《よこた》わる必然の運命だとすれば、いつまでも現在の光沢《つや》を持ち続けて行こうとする彼女は、いつか一度悲しいこの打撃を受けなければならなかった。女らしいところがなくなってしまったのに、まだ女としてこの世の中に生存するのは、真《しん》に恐ろしい生存であるとしか若い彼女には見えなかった。
 そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸に湧《わ》いているとは夢にも気のつきようはずのない叔父は、自分の前に据《す》えられた膳《ぜん》に向って胡坐《あぐら》を掻《か》きながら、彼女を見た。
「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」
 お延はすぐ答えた。
「久しぶりにお給仕でもしましょう」
 飯櫃《おはち》があいにくそこにないので、彼女が座を立ちかけると叔母が呼びとめた。
「御給仕をしたくったって、麺麭《パン》だからできないよ」
 下女が皿の上に狐色に焦《こ》げたトーストを持って来た。
「お延、叔父さんは情《なさ》けない事になっちまったよ。日本に生れて米の飯が食えないんだから可哀想《かわいそう》だろう」
 糖尿病《とうにょうびょう》の叔父は既定の分量以外に澱粉質《でんぷんしつ》を摂取《せっしゅ》する事を主治医から厳禁されてしまったのである。
「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」
 叔父の膳にはとても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐が生《なま》のままで供えられた。
 むくむくと肥え太った叔父の、わざとする情《なさけ》なさそうな顔を見たお延は、大して気の毒にならないばかりか、かえって笑いたくなった。
「少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違ないから」
 叔父は叔母を顧《かえり》みた。
「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」

0 件のコメント: