2008年11月13日木曜日

二十

 藤井というのは津田の父の弟であった。広島に三年長崎に二年という風に、方々移り歩かなければならない官吏生活を余儀なくされた彼の父は、教育上津田を連れて任地任地を巡礼のように経《へ》めぐる不便と不利益とに痛《いた》く頭を悩ましたあげく、早くから彼をその弟に託して、いっさいの面倒を見て貰う事にした。だから津田は手もなくこの叔父に育て上げられたようなものであった。したがって二人の関係は普通の叔父|甥《おい》の域《いき》を通り越していた。性質や職業の差違を問題のほかに置いて評すると、彼らは叔父甥というよりもむしろ親子であった。もし第二の親子という言葉が使えるなら、それは最も適切にこの二人の間柄《あいだがら》を説明するものであった。
 津田の父と違ってこの叔父はついぞ東京を離れた事がなかった。半生の間|始終《しじゅう》動き勝であった父に比べると、単にこの点だけでもそこに非常な相違があった。少なくとも非常な相違があるように津田の眼には映じた。
「緩慢《かんまん》なる人世の旅行者」
 叔父がかつて津田の父を評した言葉のうちにこういう文句があった。それを何気なく小耳に挟《はさ》んだ津田は、すぐ自分の父をそういう人だと思い込んでしまった。そうして今日《こんにち》までその言葉を忘れなかった。しかし叔父の使った文句の意味は、頭の発達しない当時よく解らなかったと同じように、今になっても判然《はっきり》しなかった。ただ彼は父の顔を見るたんびにそれを思い出した。肉の少ない細面《ほそおもて》の腮《あご》の下に、売卜者《うらないしゃ》見たような疎髯《そぜん》を垂らしたその姿と、叔父のこの言葉とは、彼にとってほとんど同じものを意味していた。
 彼の父は今から十年ばかり前に、突然|遍路《へんろ》に倦《う》み果てた人のように官界を退いた。そうして実業に従事し出した。彼は最後の八年を神戸で費《つい》やした後《あと》、その間に買っておいた京都の地面へ、新らしい普請《ふしん》をして、二年前にとうとうそこへ引き移った。津田の知らない間《ま》に、この閑静《かんせい》な古い都が、彼の父にとって隠栖《いんせい》の場所と定められると共に、終焉《しゅうえん》の土地とも変化したのである。その時叔父は鼻の頭へ皺《しわ》を寄せるようにして津田に云った。
「兄貴はそれでも少し金が溜《たま》ったと見えるな。あの風船玉が、じっと落ちつけるようになったのは、全く金の重みのために違ない」
 しかし金の重みのいつまで経《た》ってもかからない彼自身は、最初から動かなかった。彼は始終《しじゅう》東京にいて始終貧乏していた。彼はいまだかつて月給というものを貰った覚《おぼえ》のない男であった。月給が嫌いというよりも、むしろくれ手がなかったほどわがままだったという方が適当かも知れなかった。規則ずくめな事に何でも反対したがった彼は、年を取ってその考が少し変って来た後《あと》でも、やはり以前の強情を押し通していた。これは今さら自分の主義を改めたところで、ただ人に軽蔑《けいべつ》されるだけで、いっこう得《とく》にはならないという事をよく承知しているからでもあった。
 実際の世の中に立って、端的《たんてき》な事実と組み打ちをして働らいた経験のないこの叔父は、一面において当然|迂濶《うかつ》な人生批評家でなければならないと同時に、一面においてははなはだ鋭利な観察者であった。そうしてその鋭利な点はことごとく彼の迂濶な所から生み出されていた。言葉を換《か》えていうと、彼は迂濶の御蔭《おかげ》で奇警《きけい》な事を云ったり為《し》たりした。
 彼の知識は豊富な代りに雑駁《ざっぱく》であった。したがって彼は多くの問題に口を出したがった。けれどもいつまで行っても傍観者の態度を離れる事ができなかった。それは彼の位地《いち》が彼を余儀なくするばかりでなく、彼の性質が彼をそこに抑《おさ》えつけておくせいでもあった。彼は或頭をもっていた。けれども彼には手がなかった。もしくは手があっても、それを使おうとしなかった。彼は始終|懐手《ふところで》をしていたがった。一種の勉強家であると共に一種の不精者《ぶしょうもの》に生れついた彼は、ついに活字で飯を食わなければならない運命の所有者に過ぎなかった。

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