2008年11月13日木曜日

十九

 津田の明《あく》る朝《あさ》眼を覚《さ》ましたのはいつもよりずっと遅かった。家の内《なか》はもう一片付《ひとかたづき》かたづいた後のようにひっそり閑《かん》としていた。座敷から玄関を通って茶の間の障子《しょうじ》を開けた彼は、そこの火鉢の傍《そば》にきちんと坐って新聞を手にしている細君を見た。穏やかな家庭を代表するような音を立てて鉄瓶《てつびん》が鳴っていた。
「気を許して寝ると、寝坊《ねぼう》をするつもりはなくっても、つい寝過ごすもんだな」
 彼は云い訳らしい事をいって、暦《こよみ》の上にかけてある時計を眺めた。時計の針はもう十時近くの所を指《さ》していた。
 顔を洗ってまた茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗の膳《ぜん》に向った。その膳は彼の着席を待ち受けたというよりも、むしろ待ち草臥《くたび》れたといった方が適当であった。彼は膳の上に掛けてある布巾《ふきん》を除《と》ろうとしてふと気がついた。
「こりゃいけない」
 彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。しかし今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に云った。
「ちょっと訊《き》いてくる」
「今すぐ?」
 お延は吃驚《びっくり》して夫の顔を見た。
「なに電話でだよ。訳ゃない」
 彼は静かな茶の間の空気を自分で蹴散《けち》らす人のように立ち上ると、すぐ玄関から表へ出た。そうして電車通りを半丁《はんちょう》ほど右へ行った所にある自動電話へ馳《か》けつけた。そこからまた急ぎ足に取って返した彼は玄関に立ったまま細君を呼んだ。
「ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。御前の蟇口《がまぐち》でも好い」
「何《なん》になさるの」
 お延には夫の意味がまるで解らなかった。
「何でもいいから早く出してくれ」
 彼はお延から受取った蟇口を懐中《ふところ》へ放《ほう》り込《こ》んだまま、すぐ大通りの方へ引き返した。そうして電車に乗った。
 彼がかなり大きな紙包を抱えてまた戻って来たのは、それから約三四十分|後《ご》で、もう午《ひる》に間もない頃であった。
「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」
 津田はそう云いながら腋《わき》に抱えた包みを茶の間の畳の上へ放り出した。
「足りなくって?」
 お延は細かい事にまで気を遣《つか》わないではいられないという眼つきを夫の上に向けた。
「いや足りないというほどでもないがね」
「だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。もしかすると髪結床《かみいどこ》かと思ったけれども」
 津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気がついた。永く髪を刈らないと、心持|番《ばん》の小さい彼の帽子が、被《かぶ》るたんびに少しずつきしんで来るようだという、つい昨日《きのう》の朝受けた新らしい感じまで思い出した。
「それにあんまり急いでいらっしったもんだから、つい二階まで取りに行けなかったのよ」
「実はおれの紙入の中にも、そうたくさん入ってる訳じゃないんだから、まあどっちにしたって大した変りはないんだがね」
 彼は蟇口の悪口《わるくち》ばかり云えた義理でもなかった。
 お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶の缶《かん》と、麺麭《パン》と牛酪《バタ》を取り出した。
「おやおやこれ召《め》しゃがるの。そんなら時《とき》を取りにおやりになればいいのに」
「なにあいつじゃ分らない。何を買って来るか知れやしない」
 やがて好い香《におい》のするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。
 朝飯《あさめし》とも午飯《ひるめし》とも片のつかない、極《きわ》めて単純な西洋流の食事を済ました後で、津田は独《ひと》りごとのように云った。
「今日は病気の報知かたがた無沙汰見舞《ぶさたみまい》に、ちょっと朝の内藤井の叔父《おじ》の所まで行って来《き》ようと思ってたのに、とうとう遅くなっちまった」
 彼の意味は仕方がないから午後にこの訪問の義務を果そうというのであった。

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