2008年11月12日水曜日

五十七

 津田の宅《うち》とほぼ同じ方角に当る岡本の住居《すまい》は、少し道程《みちのり》が遠いので、三人の後《あと》に随《つ》いたお延の護謨輪《ゴムわ》は、小路《こうじ》へ曲る例の角《かど》までいっしょに来る事ができた。そこで別れる時、彼女は幌《ほろ》の中から、前に行く人達に声をかけた。けれどもそれが向うへ通じたか通じないか分らないうちに、彼女の俥《くるま》はもう電車通りを横に切れていた。しんとした小路の中で、急に一種の淋《さみ》しさが彼女の胸を打った。今まで団体的に旋回していたものが、吾知《われし》らず調子を踏《ふ》み外《はず》して、一人|圏外《けんがい》にふり落された時のように、淡いながら頼りを失った心持で、彼女は自分の宅《うち》の玄関を上った。
 下女は格子《こうし》の音を聞いても出て来なかった。茶の間には電灯が明るく輝やいているだけで、鉄瓶《てつびん》さえいつものように快い音を立てなかった。今朝《けさ》見たと何の変りもない室《へや》の中を、彼女は今朝と違った眼で見廻した。薄ら寒い感じが心細い気分を抱擁《ほうよう》し始めた。その瞬間が過ぎて、ただの淋しさが不安の念に変りかけた時、歓楽に疲れた身体《からだ》を、長火鉢《ながひばち》の前に投げかけようとした彼女は、突然勝手口の方を向いて「時、時」と下女の名前を呼んだ。同時に勝手の横に付いている下女部屋の戸を開けた。
 二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上に他愛《たわい》なく突ッ伏していたお時は、急に顔を上げた。そうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」という返事を判然《はっきり》して立ち上った。それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電灯の笠へ、崩《くず》れかかった束髪の頭をぶつけたので、あらぬ方《かた》へ波をうった電球が、なおのこと彼女を狼狽《ろうばい》させた。
 お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。こんな場合に自分ならという彼我《ひが》の比較さえ胸に浮かばなかった。今の彼女には寝ぼけたお時でさえ、そこにいてくれるのが頼母《たのも》しかった。
「早く玄関を締《し》めてお寝。潜《くぐ》りの※[#「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37]《かきがね》はあたしがかけて来たから」
 下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまた火鉢《ひばち》の前へ坐った。彼女は器械的に灰をほじくって消えかかった火種に新らしい炭を継《つ》ぎ足《た》した。そうして家庭としては欠くべからざる要件のごとくに、湯を沸《わ》かした。しかし夜更《よふけ》に鳴る鉄瓶《てつびん》の音に、一人耳を澄ましている彼女の胸に、どこからともなく逼《せま》ってくる孤独の感が、先刻《さっき》帰った時よりもなお劇《はげ》しく募《つの》って来た。それが平生遅い夫の戻りを待ちあぐんで起す淋《さび》しみに比べると、遥《はる》かに程度が違うので、お延は思わず病院に寝ている夫の姿を、懐《なつ》かしそうに心の眼で眺めた。
「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」
 彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。そうして明日《あした》は何をおいても、まず病院へ見舞に行かなければならないと考えた。しかし次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫の胸に食《くっ》ついていなかった。二人の間に何だか挟《はさ》まってしまった。こっちで寄り添おうとすればするほど、中間《ちゅうかん》にあるその邪魔ものが彼女の胸を突ッついた。しかも夫は平気で澄ましていた。半《なか》ば意地になった彼女の方でも、そんなら宜《よろ》しゅうございますといって、夫に背中を向けたくなった。
 こういう立場まで来ると、彼女の空想は会釈《えしゃく》なく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかった。芝居場で一度考えた通り、もし今夜あの夫人に会わなかったなら、最愛の夫に対して、これほど不愉快な感じを抱《いだ》かずにすんだろうにという気ばかり強くした。
 しまいに彼女はどこかにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。昨夜《ゆうべ》書きかけた里へやる手紙の続《つづき》を書こうと思って、筆を執《と》りかけた彼女は、いつまで経《た》っても、夫婦仲よく暮しているから安心してくれという意味よりほかに、自分の思いを巻紙の上に運ぶ事ができなかった。それは彼女が常に両親に対して是非云いたい言葉であった。しかし今夜は、どうしてもそれだけでは物足らない言葉であった。自分の頭を纏《まと》める事に疲れ果た彼女は、とうとう筆を投げ出した。着物もそこへ脱ぎ捨てたまま、彼女はついに床へ入った。長い間眼に映った劇場の光景が、断片的に幾通りもの強い色になって、興奮した彼女の頭をちらちら刺戟《しげき》するので、彼女は焦《じ》らされる人のように、いつまでも眠に落ちる事ができなかった。

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