2008年11月13日木曜日

三十

 それでも座は白《しら》けてしまった。今まで心持よく流れていた談話が、急に堰《せ》き止められたように、誰も津田の言葉を受《う》け継《つ》いで、順々に後《あと》へ送ってくれるものがなくなった。
 小林は自分の前にある麦酒《ビール》の洋盃《コップ》を指《さ》して、ないしょのような小さい声で、隣りにいる真事に訊《き》いた。
「真事《まこと》さん、お酒を上げましょうか。少し飲んで御覧なさい」
「苦《にが》いから僕|厭《いや》だよ」
 真事はすぐ跳《は》ねつけた。始めから飲ませる気のなかった小林は、それを機《しお》にははと笑った。好い相手ができたと思ったのか真事は突然小林に云った。
「僕一円五十銭の空気銃をもってるよ。持って来て見せようか」
 すぐ立って奥の四畳半へ馳《か》け込んだ彼が、そこから新らしい玩具《おもちゃ》を茶の間へ持ち出した時、小林は行きがかり上、ぴかぴかする空気銃の嘆賞者とならなければすまなかった。叔父も叔母も嬉《うれ》しがっているわが子のために、一言《いちごん》の愛嬌《あいきょう》を義務的に添える必要があった。
「どうも時計を買えの、万年筆を買えのって、貧乏な阿爺《おやじ》を責めて困る。それでも近頃馬だけはどうかこうか諦《あき》らめたようだから、まだ始末が好い」
「馬も存外安いもんですな。北海道へ行きますと、一頭五六円で立派なのが手に入《い》ります」
「見て来たような事を云うな」
 空気銃の御蔭《おかげ》で、みんながまた満遍《まんべん》なく口を利《き》くようになった。結婚が再び彼らの話頭に上《のぼ》った。それは途切《とぎ》れた前の続きに相違なかった。けれどもそれを口にする人々は、少しずつ前と異《ちが》った気分によって、彼らの表現を支配されていた。
「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁《ふえん》になるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも、末始終《すえしじゅう》和合するとは限らないんだから」
 叔母の見て来た世の中を正直に纏《まと》めるとこうなるよりほかに仕方なかった。この大きな事実の一隅《いちぐう》にお金さんの結婚を安全におこうとする彼女の態度は、弁護的というよりもむしろ説明的であった。そうしてその説明は津田から見ると最も不完全でまた最も不安全であった。結婚について津田の誠実を疑うような口ぶりを見せた叔母こそ、この点にかけて根本的な真面目《まじめ》さを欠いているとしか彼には思えなかった。
「そりゃ楽な身分の人の云い草ですよ」と叔母は開き直って津田に云った。「やれ交際だの、やれ婚約だのって、そんな贅沢《ぜいたく》な事を、我々|風情《ふぜい》が云ってられますか。貰ってくれ手、来てくれ手があれば、それでありがたいと思わなくっちゃならないくらいのものです」
 津田はみんなの手前今のお金さんの場合についてかれこれ云いたくなかった。それをいうほどの深い関係もなくまた興味もない彼は、ただ叔母が自分に対してもつ、不真面目《ふまじめ》という疑念を塗り潰《つぶ》すために、向うの不真面目さを啓発しておかなくてはいけないという心持に制せられるので、黙ってしまう訳に行かなかった。彼は首を捻《ひね》って考え込む様子をしながら云った。
「何もお金さんの場合をとやかく批評する気はないんだが、いったい結婚を、そう容易《たやす》く考えて構わないものか知ら。僕には何だか不真面目なような気がしていけないがな」
「だって行く方で真面目に行く気になり、貰う方でも真面目に貰う気になれば、どこと云って不真面目なところが出て来《き》ようはずがないじゃないか。由雄さん」
「そういう風に手っとり早く真面目になれるかが問題でしょう」
「なれればこそ叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来て、ちゃんとこうしているじゃありませんか」
「そりゃ叔母さんはそうでしょうが、今の若いものは……」
「今だって昔だって人間に変りがあるものかね。みんな自分の決心一つです」
「そう云った日にゃまるで議論にならない」
「議論にならなくっても、事実の上で、あたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。いろいろ選《え》り好《ごの》みをしたあげく、お嫁さんを貰った後でも、まだ選り好みをして落ちつかずにいる人よりも、こっちの方がどのくらい真面目だか解りゃしない」
 先刻《さっき》から肉を突ッついていた叔父は、自分の口を出さなければならない時機に到着した人のように、皿から眼を放した。

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