2008年11月12日水曜日

五十一

 彼女が叔父叔母の後《あと》に随《つ》いて、継子といっしょに、二階の片隅《かたすみ》にある奥行の深い食堂に入るべく席を立ったのは、それから小一時間|後《のち》であった。彼女は自分と肩を並べて、すれすれに廊下を歩いて行く従妹《いとこ》に小声で訊《き》いて見た。
「いったいこれから何が始まるの」
「知らないわ」
 継子は下を向いて答えた。
「ただ御飯を食べるぎりなの」
「そうなんでしょう」
 訊《き》こうとすれば訊こうとするほど、継子の返事が曖昧《あいまい》になってくるように思われたので、お延はそれぎり口を閉じた。継子は前に行く父母《ちちはは》に遠慮があるのかも知れなかった。また自分は何《なん》にも承知していないのかも分らなかった。あるいは承知していても、お延に話したくないので、わざと短かい返事を小さな声で与えないとも限らなかった。
 鋭い一瞥《いちべつ》の注意を彼らの上に払って行きがちな、廊下で出逢《であ》う多数の人々は、みんなお延よりも継子の方に余分の視線を向けた。忽然《こつぜん》お延の頭に彼女と自分との比較が閃《ひら》めいた。姿恰好《すがたかっこう》は継子に立《た》ち優《まさ》っていても、服装《なり》や顔形《かおかたち》で是非ひけを取らなければならなかった彼女は、いつまでも子供らしく羞恥《はにか》んでいるような、またどこまでも気苦労のなさそうに初々《ういうい》しく出来上った、処女としては水の滴《した》たるばかりの、この従妹《いとこ》を軽い嫉妬《しっと》の眼で視《み》た。そこにはたとい気の毒だという侮蔑《ぶべつ》の意《こころ》が全く打ち消されていないにしたところで、ちょっと彼我《ひが》の地位を易《か》えて立って見たいぐらいな羨望《せんぼう》の念が、著《いちじ》るしく働らいていた。お延は考えた。
「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」
 幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。平生継子を標準《めやす》におかないで、何とも思わずに暮していた彼女は、今その従妹と肩を並べながら、賑《にぎ》やかな電灯で明るく照らされた廊下の上に立って、またかつて感じた事のない一種の哀愁《あいしゅう》に打たれた。それは軽いものであった。しかし涙に変化しやすい性質《たち》のものであった。そうして今|嫉妬《しっと》の眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握り締《し》めたくなるような種類のものであった。彼女は心の中で継子に云った。
「あなたは私より純潔です。私が羨《うら》やましがるほど純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません。私のように手落なく仕向けてすら夫は、けっしてこっちの思う通りに感謝してくれるものではありません。あなたは今に夫の愛を繋《つな》ぐために、その貴《たっと》い純潔な生地《きじ》を失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら、夫はことによるとあなたに辛《つら》くあたるかも知れません。私はあなたが羨《うらや》ましいと同時に、あなたがお気の毒です。近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気にもっているからです。幸か不幸か始めから私には今あなたのもっているような天然そのままの器《うつわ》が完全に具わっておりませんでしたから、それほどの損失もないのだと云えば、云われないこともないでしょうが、あなたは私と違います。あなたは父母《ふぼ》の膝下《しっか》を離れると共に、すぐ天真の姿を傷《きずつ》けられます。あなたは私よりも可哀相《かわいそう》です」
 二人の歩き方は遅かった。先に行った岡本夫婦が人に遮《さえ》ぎられて見えなくなった時、叔母はわざわざ取って返した。
「早くおいでなね。何をぐずぐずしているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ」
 叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。言葉もとくに彼女に向ってかけられた。けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。彼女は自分のあまり好いていない、また向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。彼女は自分の夫が、平生から一方《ひとかた》ならぬ恩顧《おんこ》を受けている勢力家の妻君として、今その人の前に、能《あた》う限《かぎ》りの愛嬌《あいきょう》と礼儀とを示さなければならなかった。平静のうちに一種の緊張を包んで彼女は、知らん顔をして、みんなの後《あと》に随《つ》いて食堂に入った。

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