2008年11月5日水曜日

百七十一

 靄《もや》とも夜の色とも片づかないものの中にぼんやり描き出された町の様はまるで寂寞《せきばく》たる夢であった。自分の四辺《しへん》にちらちらする弱い電灯の光と、その光の届かない先に横《よこた》わる大きな闇《やみ》の姿を見較《みくら》べた時の津田にはたしかに夢という感じが起った。
「おれは今この夢見たようなものの続きを辿《たど》ろうとしている。東京を立つ前から、もっと几帳面《きちょうめん》に云えば、吉川夫人にこの温泉行を勧められない前から、いやもっと深く突き込んで云えば、お延と結婚する前から、――それでもまだ云い足りない、実は突然清子に背中を向けられたその刹那《せつな》から、自分はもうすでにこの夢のようなものに祟《たた》られているのだ。そうして今ちょうどその夢を追《おっ》かけようとしている途中なのだ。顧《かえり》みると過去から持ち越したこの一条《ひとすじ》の夢が、これから目的地へ着くと同時に、からりと覚めるのかしら。それは吉川夫人の意見であった。したがって夫人の意見に賛成し、またそれを実行する今の自分の意見でもあると云わなければなるまい。しかしそれははたして事実だろうか。自分の夢ははたして綺麗に拭《ぬぐ》い去られるだろうか。自分ははたしてそれだけの信念をもって、この夢のようにぼんやりした寒村《かんそん》の中に立っているのだろうか。眼に入《い》る低い軒、近頃|砂利《じゃり》を敷いたらしい狭い道路、貧しい電灯の影、傾《かた》むきかかった藁屋根《わらやね》、黄色い幌《ほろ》を下《おろ》した一頭立《いっとうだて》の馬車、――新とも旧とも片のつけられないこの一塊《ひとかたまり》の配合を、なおの事夢らしく粧《よそお》っている肌寒《はださむ》と夜寒《よさむ》と闇暗《くらやみ》、――すべて朦朧《もうろう》たる事実から受けるこの感じは、自分がここまで運んで来た宿命の象徴じゃないだろうか。今までも夢、今も夢、これから先も夢、その夢を抱《だ》いてまた東京へ帰って行く。それが事件の結末にならないとも限らない。いや多分はそうなりそうだ。じゃ何のために雨の東京を立ってこんな所まで出かけて来たのだ。畢竟《ひっきょう》馬鹿だから? いよいよ馬鹿と事がきまりさえすれば、ここからでも引き返せるんだが」
 この感想は一度に来た。半分《はんぷん》とかからないうちに、これだけの順序と、段落と、論理と、空想を具《そな》えて、抱き合うように彼の頭の中を通過した。しかしそれから後《あと》の彼はもう自分の主人公ではなかった。どこから来たとも知れない若い男が突然現われて、彼の荷物を受け取った。一分《いっぷん》の猶予《ゆうよ》なく彼をすぐ前にある茶店の中へ引き込んで、彼の行こうとする宿屋の名を訊《き》いたり、馬車に乗るか俥《くるま》にするかを確かめたりした上に、彼の予期していないような愛嬌《あいきょう》さえ、自由自在に忙がしい短時間の間に操縦《そうじゅう》して退《の》けた。
 彼はやがて否応《いやおう》なしにズックの幌《ほろ》を下《おろ》した馬車の上へ乗せられた。そうして御免といいながら自分の前に腰をかける先刻《さっき》の若い男を見出すべく驚ろかされた。
「君もいっしょに行くのかい」
「へえ、お邪魔でも、どうか」
 若い男は津田の目指《めざ》している宿屋の手代《てだい》であった。
「ここに旗が立っています」
 彼は首を曲げて御者台《ぎょしゃだい》の隅《すみ》に挿《さ》し込んである赤い小旗を見た。暗いので中に染め抜かれた文字は津田の眼に入らなかった。旗はただ馬車の速力で起す風のために、彼の座席の方へはげしく吹かれるだけであった。彼は首を縮めて外套《がいとう》の襟《えり》を立てた。
「夜中《やちゅう》はもうだいぶお寒くなりました」
 御者台《ぎょしゃだい》を背中に背負《しょ》ってる手代は、位地《いち》の関係から少しも風を受けないので、この云《い》い草《ぐさ》は何となく小賢《こざか》しく津田の耳に響いた。
 道は左右に田を控えているらしく思われた。そうして道と田の境目《さかいめ》には小河の流れが時々聞こえるように感ぜられた。田は両方とも狭く細く山で仕切られているような気もした。
 津田は帽子と外套の襟で隠し切れない顔の一部分だけを風に曝《さら》して、寒さに抵抗でもするように黙想の態度を手代に示した。手代もその方が便利だと見えて、強《し》いて向うから口を利《き》こうともしなかった。
 すると突然津田の心が揺《うご》いた。
「お客はたくさんいるかい」
「へえありがとう、お蔭《かげ》さまで」
「何人《なんにん》ぐらい」
 何人とも答えなかった手代は、かえって弁解がましい返事をした。
「ただいまはあいにく季節が季節だもんでげすから、あんまりおいでがございません。寒い時は暮からお正月へかけまして、それから夏場になりますと、まあ七八|二月《ふたつき》ですな、繁昌《はんじょう》するのは。そんな時にゃ臨時のお客さまを御断りする事が、毎日のようにございます」
「じゃ今がちょうど閑《ひま》な時なんだね、そうか」
「へえ、どうぞごゆっくり」
「ありがとう」
「やっぱり御病気のためにわざわざおいでなんで」
「うんまあそうだ」
 清子の事を訊《き》く目的で話し始めた津田は、ここへ来て急に痞《つか》えた。彼は気がさした。彼女の名前を口にするに堪えなかった。その上|後《あと》で面倒でも起ると悪いとも思い返した。手代から顔を離して馬車の背に倚《よ》りかかり直した彼は、再び沈黙の姿勢を回復した。

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