2008年11月7日金曜日

百三

 彼女が医者の玄関へかかったのはその三四分前であった。医者の診察時間は午前と午後に分れていて、午後の方は、役所や会社へ勤める人の便宜《べんぎ》を計るため、四時から八時までの規定になっているので、お延は比較的閑静な扉《ドアー》を開けて内へ入る事ができたのである。
 実際彼女は三四日《さんよっか》前に来た時のように、編上《あみあげ》だの畳《たたみ》つきだのという雑然たる穿物《はきもの》を、一足も沓脱《くつぬぎ》の上に見出《みいだ》さなかった。患者の影は無論の事であった。時間外という考えを少しも頭の中に入れていなかった彼女には、それがいかにも不思議であったくらい四囲《あたり》は寂寞《ひっそり》していた。
 彼女はその森《しん》とした玄関の沓脱の上に、行儀よく揃《そろ》えられたただ一足の女下駄を認めた。価段《ねだん》から云っても看護婦などの穿《は》きそうもない新らしいその下駄が突然彼女の心を躍《おど》らせた。下駄はまさしく若い婦人のものであった。小林から受けた疑念で胸がいっぱいになっていた彼女は、しばらくそれから眼を放す事ができなかった。彼女は猛烈にそれを見た。
 右手にある小さい四角な窓から書生が顔を出した。そうしてそこに動かないお延の姿を認めた時、誰何《すいか》でもする人のような表情を彼女の上に注いだ。彼女はすぐ津田への来客があるかないかを確かめた。それが若い女であるかないかも訊《き》いた。それからわざと取次を断って、ひとりで階子段《はしごだん》の下まで来た。そうして上を見上げた。
 上では絶えざる話し声が聞こえた。しかし普通雑談の時に、言葉が対話者の間を、淀《よど》みなく往ったり来たり流れているのとはだいぶ趣《おもむき》を異《こと》にしていた。そこには強い感情があった。亢奮《こうふん》があった。しかもそれを抑《おさ》えつけようとする努力の痕《あと》がありありと聞こえた。他聞《たぶん》を憚《はば》かるとしか受取れないその談話が、お延の神経を針のように鋭どくした。下駄を見つめた時より以上の猛烈さがそこに現われた。彼女は一倍猛烈に耳を傾むけた。
 津田の部屋は診察室の真上にあった。家の構造から云うと、階子段を上《あが》ってすぐ取《とっ》つきが壁で、その右手がまた四畳半の小さい部屋になっているので、この部屋の前を廊下伝いに通り越さなければ、津田の寝ている所へは出られなかった。したがってお延の聴《き》こうとする談話は、聴くに都合の好くない見当《けんとう》、すなわち彼女の後《うしろ》の方から洩《も》れて来るのであった。
 彼女はそっと階子段を上《のぼ》った。柔婉《しなやか》な体格《からだ》をもった彼女の足音は猫のように静かであった。そうして猫と同じような成効《せいこう》をもって酬《むく》いられた。
 上《あが》り口《ぐち》の一方には、落ちない用心に、一間ほどの手欄《てすり》が拵《こしら》えてあった。お延はそれに倚《よ》って、津田の様子を窺《うかが》った。するとたちまち鋭どいお秀の声が彼女の耳に入《い》った。ことに嫂《ねえ》さんがという特殊な言葉が際立《きわだ》って鼓膜《こまく》に響いた。みごとに予期の外《はず》れた彼女は、またはっと思わせられた。硬い緊張が弛《ゆる》む暇《いとま》なく再び彼女を襲って来た。彼女は津田に向ってお秀の口から抛《な》げつけられる嫂さんというその言葉が、どんな意味に用いられているかを知らなければならなかった。彼女は耳を澄ました。
 二人の語勢は聴いているうちに急になって来た。二人は明らかに喧嘩《けんか》をしていた。その喧嘩の渦中《かちゅう》には、知らない間《ま》に、自分が引き込まれていた。あるいは自分がこの喧嘩の主《おも》な原因かも分らなかった。
 しかし前後の関係を知らない彼女は、ただそれだけで自分の位置をきめる訳に行かなかった。それに二人の使う、というよりもむしろお秀の使う言葉は霰《あられ》のように忙がしかった。後から後から落ちてくる単語の意味を、一粒ずつ拾って吟味《ぎんみ》している閑《ひま》などはとうていなかった。「人格」、「大事にする」、「当り前」、こんな言葉がそれからそれへとそこに佇立《たたず》んでいる彼女の耳朶《みみたぶ》を叩《たた》きに来るだけであった。
 彼女は事件が分明《ぶんみょう》になるまでじっと動かずに立っていようかと考えた。するとその時お秀の口から最後の砲撃のように出た「兄さんは嫂さんよりほかにもまだ大事にしている人があるのだ」という句が、突然彼女の心を震《ふる》わせた。際立《きわだ》って明暸《めいりょう》に聞こえたこの一句ほどお延にとって大切なものはなかった。同時にこの一句ほど彼女にとって不明暸なものもなかった。後を聞かなければ、それだけで独立した役にはとても立てられなかった。お延はどんな犠牲を払っても、その後を聴かなければ気がすまなかった。しかしその後はまたどうしても聴いていられなかった。先刻《さっき》から一言葉《ひとことば》ごとに一調子《ひとちょうし》ずつ高まって来た二人の遣取《やりとり》は、ここで絶頂に達したものと見傚《みな》すよりほかに途《みち》はなかった。もう一歩も先へ進めない極端まで来ていた。もし強《し》いて先へ出ようとすれば、どっちかで手を出さなければならなかった。したがってお延は不体裁《ふていさい》を防ぐ緩和剤《かんわざい》として、どうしても病室へ入らなければならなかった。
 彼女は兄妹《きょうだい》の中をよく知っていた。彼らの不和の原因が自分にある事も彼女には平生から解っていた。そこへ顔を出すには、出すだけの手際《てぎわ》が要《い》った。しかし彼女にはその自信がないでもなかった。彼女は際《きわ》どい刹那《せつな》に覚悟をきめた。そうしてわざと静かに病室の襖《ふすま》を開けた。

0 件のコメント: