2008年11月7日金曜日

百二

「解《わか》りました」
 お秀は鋭どい声でこう云《い》い放《はな》った。しかし彼女の改まった切口上《きりこうじょう》は外面上何の変化も津田の上に持ち来さなかった。彼はもう彼女の挑戦《ちょうせん》に応ずる気色《けしき》を見せなかった。
「解りましたよ、兄さん」
 お秀は津田の肩を揺《ゆす》ぶるような具合に、再び前の言葉を繰返した。津田は仕方なしにまた口を開いた。
「何が」
「なぜ嫂《ねえ》さんに対して兄さんがそんなに気をおいていらっしゃるかという意味がです」
 津田の頭に一種の好奇心が起った。
「云って御覧」
「云う必要はないんです。ただ私にその意味が解ったという事だけを承知していただけばたくさんなんです」
「そんならわざわざ断る必要はないよ。黙って独《ひと》りで解ったと思っているがいい」
「いいえよくないんです。兄さんは私を妹と見傚《みな》していらっしゃらない。お父さんやお母さんに関係する事でなければ、私には兄さんの前で何にもいう権利がないものとしていらっしゃる。だから私も云いません。しかし云わなくっても、眼はちゃんとついています。知らないで云わないと思っておいでだと間違いますから、ちょっとお断り致したのです」
 津田は話をここいらで切り上げてしまうよりほかに道はないと考えた。なまじいかかり合えばかかり合うほど、事は面倒になるだけだと思った。しかし彼には妹に頭を下げる気がちっともなかった。彼女の前に後悔するなどという芝居じみた真似《まね》は夢にも思いつけなかった。そのくらいの事をあえてし得る彼は、平生から低く見ている妹にだけは、思いのほか高慢であった。そうしてその高慢なところを、他人に対してよりも、比較的遠慮なく外へ出した。したがっていくら口先が和解的でも大して役に立たなかった。お秀にはただ彼の中心にある軽蔑《けいべつ》が、微温《なまぬる》い表現を通して伝わるだけであった。彼女はもうやりきれないと云った様子を先刻《さっき》から見せている津田を毫《ごう》も容赦しなかった。そうしてまた「兄さん」と云い出した。
 その時津田はそれまでにまだ見出し得なかったお秀の変化に気がついた。今までの彼女は彼を通して常に鋒先《ほこさき》をお延に向けていた。兄を攻撃するのも嘘《うそ》ではなかったが、矢面《やおもて》に立つ彼をよそにしても、背後に控えている嫂《あね》だけは是非射とめなければならないというのが、彼女の真剣であった。それがいつの間にか変って来た。彼女は勝手に主客の位置を改めた。そうして一直線に兄の方へ向いて進んで来た。
「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。よし権利がないにしたところで、もしそうした疑《うたがい》を妹が少しでももっているなら、綺麗《きれい》にそれを晴らしてくれるのが兄の義務――義務は取り消します、私には不釣合な言葉かも知れませんから。――少なくとも兄の人情でしょう。私は今その人情をもっていらっしゃらない兄さんを眼の前に見る事を妹として悲しみます」
「何を生意気な事を云うんだ。黙っていろ、何にも解りもしない癖に」
 津田の癇癪《かんしゃく》は始めて破裂した。
「お前に人格という言葉の意味が解るか。たかが女学校を卒業したぐらいで、そんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ」
「私は言葉に重きをおいていやしません。事実を問題にしているのです」
「事実とは何だ。おれの頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女に捕《つら》まえられると思うのか。馬鹿め」
「そう私を軽蔑《けいべつ》なさるなら、御注意までに申します。しかしよござんすか」
「いいも悪いも答える必要はない。人の病気のところへ来て何だ、その態度は。それでも妹だというつもりか」
「あなたが兄さんらしくないからです」
「黙れ」
「黙りません。云うだけの事は云います。兄さんは嫂《ねえ》さんに自由にされています。お父さんや、お母さんや、私などよりも嫂さんを大事にしています」
「妹より妻《さい》を大事にするのはどこの国へ行ったって当り前だ」
「それだけならいいんです。しかし兄さんのはそれだけじゃないんです。嫂さんを大事にしていながら、まだほかにも大事にしている人があるんです」
「何だ」
「それだから兄さんは嫂さんを怖《こわ》がるのです。しかもその怖がるのは――」
 お秀がこう云いかけた時、病室の襖《ふすま》がすうと開《あ》いた。そうして蒼白《あおしろ》い顔をしたお延の姿が突然二人の前に現われた。

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