「嫂さん何かおっしゃる事があるなら、後でゆっくり伺いますから、御迷惑でも我慢して私に云うだけ云わせてしまって下さい。なにもう直《じき》です。そんなに長くかかりゃしません」
お秀の断り方は妙に落ちついていた。先刻《さっき》津田と衝突した時に比《くら》べると、彼女はまるで反対の傾向を帯びて、激昂《げっこう》から沈静の方へ推《お》し移って来た。それがこの場合いかにも案外な現象として二人の眼に映った。
「兄さん」とお秀が云った。「私はなぜもっと早くこの包んだ物を兄さんの前に出さなかったのでしょう。そうして今になってまた何できまりが悪くもなく、それをあなた方の前に出されたのでしょう。考えて下さい。嫂《ねえ》さんも考えて下さい」
考えるまでもなく、二人にはそれがお秀の詭弁《きべん》としか受取れなかった。ことにお延にはそう見えた。しかしお秀は真面目《まじめ》であった。
「兄さん私はこれであなたを兄さんらしくしたかったのです。たかがそれほどの金でかと兄さんはせせら笑うでしょう。しかし私から云えば金額《かねだか》は問題じゃありません。少しでも兄さんを兄さんらしくできる機会があれば、私はいつでもそれを利用する気なのです。私は今日《きょう》ここでできるだけの努力をしました。そうしてみごとに失敗しました。ことに嫂さんがおいでになってから以後、私の失敗は急に目立って来ました。私が妹として兄さんに対する執着を永久に放《ほう》り出《だ》さなければならなくなったのはその時です。――嫂さん、後生《ごしょう》ですから、もう少し我慢して聴いていて下さい」
お秀はまたこう云って何か云おうとするお延を制した。
「あなた方の態度はよく私に解《わか》りました。あなた方から一時間二時間の説明を伺うより、今ここで拝見しただけで、私が勝手に判断する方が、かえってよく解るように思われますから、私はもう何《なん》にも伺いません。しかし私には自分を説明する必要がまだあります。そこは是非聴いていただかなければなりません」
お延はずいぶん手前勝手な女だと思いながら黙っていた。しかし初手《しょて》から勝利者の余裕が附着している彼女には、黙っていても大した不足はなかった。
「兄さん」とお秀が云った。「これを見て下さい。ちゃんと紙に包んであります。お秀が宅《うち》から用意して持って来たという証拠にはなるでしょう。そこにお秀の意味はあるのです」
お秀はわざわざ枕元の紙包を取り上げて見せた。
「これが親切というものです。あなた方にはどうしてもその意味がお解りにならないから、仕方なしに私が自分で説明します。そうして兄さんが兄さんらしくして下さらなくっても、私は宅から持って来た親切をここへ置いて行くよりほかに途《みち》はないのだという事もいっしょに説明します。兄さん、これは妹の親切ですか義務ですか。兄さんは先刻《さっき》そういう問を私におかけになりました。私はどっちも同《おんな》じだと云いました。兄さんが妹の親切を受けて下さらないのに、妹はまだその親切を尽くす気でいたら、その親切は義務とどこが違うんでしょう。私の親切を兄さんの方で義務に変化させてしまうだけじゃありませんか」
「お秀もう解ったよ」と津田がようやく云い出した。彼の頭に妹のいう意味は判然《はっきり》入った。けれども彼女の予期する感情は少しも起らなかった。彼は先刻から蒼蠅《うる》さいのを我慢して彼女の云い草を聴いていた。彼から見た妹は、親切でもなければ、誠実でもなかった。愛嬌《あいきょう》もなければ気高《けだか》くもなかった。ただ厄介《やっかい》なだけであった。
「もう解ったよ。それでいいよ。もうたくさんだよ」
すでに諦《あき》らめていたお秀は、別に恨《うら》めしそうな顔もしなかった。ただこう云った。
「これは良人《うち》が立て替えて上げるお金ではありませんよ、兄さん。良人が京都へ保証して成り立った約束を、兄さんがお破りになったために、良人ではお父さんの方へ義理ができて、仕方なしに立て替えた事になるとしたら、なんぼ兄さんだって、心持よく受け取る気にはなれないでしょう。私もそんな事で良人《うち》を煩《わずら》わせるのは厭《いや》です。だからお断りをしておきますが、これは良人とは関係のないお金です。私のです。だから兄さんも黙ってお取りになれるでしょう。私の親切はお受けにならないでも、お金だけはお取りになれるでしょう。今の私はなまじいお礼を云っていただくより、ただ黙って受取っておいて下さる方が、かえって心持が好くなっているのです。問題はもう兄さんのためじゃなくなっているんです。単に私のためです。兄さん、私のためにどうぞそれを受取って下さい」
お秀はこれだけ云って立ち上った。お延は津田の顔を見た。その顔には何《なん》という合図《あいず》の表情も見えなかった。彼女は仕方なしにお秀を送って階子段《はしごだん》を降りた。二人は玄関先で尋常の挨拶《あいさつ》を交《と》り換《かわ》せて別れた。
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