2008年11月7日金曜日

百十一

 単に病院でお秀に出会うという事は、お延にとって意外でも何でもなかった。けれども出会った結果からいうと、また意外以上の意外に帰着した。自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな場面《シーン》でその相手になろうとは思わなかった。相手になった後《あと》でも、それが偶然の廻《まわ》り合《あわ》せのように解釈されるだけであった。その必然性を認めるために、過去の因果《いんが》を迹付《あとづ》けて見ようという気さえ起らなかった。この心理状態をもっと砕けた言葉で云い直すと、事件の責任は全く自分にないという事に過ぎなかった。すべてお秀が背負《しょ》って立たなければならないという意味であった。したがってお延の心は存外平静であった。少くとも、良心に対して疚《や》ましい点は容易に見出《みい》だされなかった。
 この会見からお延の得た収獲は二つあった。一つは事後に起る不愉快さであった。その不愉快さのうちには、お秀を通して今後自分達の上に持《も》ち来《きた》されそうに見える葛藤《かっとう》さえ織り込まれていた。彼女は充分それを切り抜けて行く覚悟をもっていた。ただしそれには、津田が飽《あ》くまで自分の肩を持ってくれなければ駄目だという条件が附帯していた。そこへ行くと彼女には七分通《しちぶどお》りの安心と、三分方《さんぶがた》の不安があった。その三分方の不安を、今日《きょう》の自分が、どのくらいの程度に減らしているかは、彼女にとって重大な問題であった。少くとも今日の彼女は、夫の愛を買うために、もしくはそれを買い戻すために、できるだけの実《じつ》を津田に見せたという意味で、幾分かの自信をその方面に得たつもりなのである。
 これはお延自身に解っている側《がわ》の消息中《しょうそくちゅう》で、最も必要と認めなければならない一端であるが、そのほかにまだ彼女のいっこう知らない間《ま》に、自然自分の手に入るように仕組まれた収獲ができた。無論それは一時的のものに過ぎなかった。けれども当然自分の上に向けられるべき夫の猜疑《さいぎ》の眼《め》から、彼女は運よく免《まぬ》かれたのである。というのは、お秀という相手を引き受ける前の津田と、それに悩まされ出した後の彼とは、心持から云っても、意識の焦点になるべき対象から見ても、まるで違っていた。だからこの変化の強く起った際《きわ》どい瞬間に姿を現わして、その変化の波を自然のままに拡《ひろ》げる役を勤めたお延は、吾知《われし》らず儲《もう》けものをしたのと同じ事になったのである。
 彼女はなぜ岡本が強《し》いて自分を芝居へ誘ったか、またなぜその岡本の宅《うち》へ昨日《きのう》行かなければならなくなったか、そんな内情に関するすべての自分を津田の前に説明する手数《てかず》を省《はぶ》く事ができた。むしろ自分の方から云い出したいくらいな小林の言葉についてすら、彼女は一口も語る余裕をもたなかった。お秀の帰ったあとの二人は、お秀の事で全く頭を占領されていた。
 二人はそれを二人の顔つきから知った。そうして二人の顔を見合せたのは、お秀を送り出したお延が、階子段《はしごだん》を上《あが》って、また室《へや》の入口にそのすらりとした姿を現わした刹那《せつな》であった。お延は微笑した。すると津田も微笑した。そこにはほかに何《なん》にもなかった。ただ二人がいるだけであった。そうして互の微笑が互の胸の底に沈んだ。少なくともお延は久しぶりに本来の津田をそこに認めたような気がした。彼女は肉の上に浮び上ったその微笑が何の象徴《シムボル》であるかをほとんど知らなかった。ただ一種の恰好《かっこう》をとって動いた肉その物の形が、彼女には嬉《うれ》しい記念であった。彼女は大事にそれを心の奥にしまい込んだ。
 その時二人の微笑はにわかに変った。二人は歯を露《あら》わすまでに口を開《あ》けて、一度に声を出して笑い合った。
「驚ろいた」
 お延はこう云いながらまた津田の枕元へ来て坐った。津田はむしろ落ちついて答えた。
「だから彼奴《あいつ》に電話なんかかけるなって云うんだ」
 二人は自然お秀を問題にしなければならなかった。
「秀子さんは、まさか基督教《キリストきょう》じゃないでしょうね」
「なぜ」
「なぜでも――」
「金を置いて行ったからかい」
「そればかりじゃないのよ」
「真面目《まじめ》くさった説法をするからかい」
「ええまあそうよ。あたし始めてだわ。秀子さんのあんなむずかしい事をおっしゃるところを拝見したのは」
「彼奴は理窟屋《りくつや》だよ。つまりああ捏《こ》ね返《かえ》さなければ気がすまない女なんだ」
「だってあたし始めてよ」
「お前は始めてさ。おれは何度だか分りゃしない。いったい何でもないのに高尚がるのが彼奴の癖なんだ。そうして生《なま》じい藤井の叔父の感化を受けてるのが毒になるんだ」
「どうして」
「どうしてって、藤井の叔父の傍《そば》にいて、あの叔父の議論好きなところを、始終《しじゅう》見ていたもんだから、とうとうあんなに口が達者になっちまったのさ」
 津田は馬鹿らしいという風をした。お延も苦笑した。

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