2008年11月7日金曜日

百九

「実は先刻《さっき》から云おうか止《よ》そうかと思って、考えていたんですけれども、そんな風に兄さんから冷笑《ひや》かされて見ると、私だって黙って帰るのが厭《いや》になります。だから云うだけの事はここで云ってしまいます。けれども一応お断りしておきますが、これから申し上げる事は今までのとは少し意味が違いますよ。それを今まで通りの態度で聴いていられると、私だって少し迷惑するかも知れません、というのは、ただ私が誤解されるのが厭だという意味でなくって、私の心持があなた方に通じなくなるという訳合《わけあい》からです」
 お秀の説明はこういう言葉で始まった。それがすでに自分の態度を改めかかっている二人の予期に一倍の角度を与えた。彼らは黙ってその後《あと》を待った。しかしお秀はもう一遍念を押した。
「少しや真面目《まじめ》に聴いて下さるでしょうね。私の方が真面目になったら」
 こう云ったお秀はその強い眼を津田の上からお延に移した。
「もっとも今までが不真面目という訳でもありませんけれどもね。何しろ嫂《ねえ》さんさえここにいて下されば、まあ大丈夫でしょう。いつもの兄妹喧嘩《きょうだいげんか》になったら、その時に止《と》めていただけばそれまでですから」
 お延は微笑して見せた。しかしお秀は応じなかった。
「私はいつかっから兄さんに云おう云おうと思っていたんです。嫂さんのいらっしゃる前でですよ。だけど、その機会がなかったから、今日《きょう》まで云わずにいました。それを今改めてあなた方のお揃《そろ》いになったところで申してしまうのです。それはほかでもありません。よござんすか、あなた方お二人は御自分達の事よりほかに何《なん》にも考えていらっしゃらない方《かた》だという事だけなんです。自分達さえよければ、いくら他《ひと》が困ろうが迷惑しようが、まるでよそを向いて取り合わずにいられる方だというだけなんです」
 この断案を津田はむしろ冷静に受ける事ができた。彼はそれを自分の特色と認める上に、一般人間の特色とも認めて疑わなかったのだから。しかしお延にはまたこれほど意外な批評はなかった。彼女はただ呆《あき》れるばかりであった。幸か不幸かお秀は彼女の口を開く前にすぐ先へ行った。
「兄さんは自分を可愛がるだけなんです。嫂さんはまた兄さんに可愛がられるだけなんです。あなた方の眼にはほかに何にもないんです。妹などは無論の事、お父さんもお母さんももうないんです」
 ここまで来たお秀は急に後を継《つ》ぎ足《た》した。二人の中《うち》の一人が自分を遮《さえ》ぎりはしまいかと恐れでもするような様子を見せて。
「私はただ私の眼に映った通りの事実を云うだけです。それをどうして貰《もら》いたいというのではありません。もうその時機は過ぎました。有体《ありてい》にいうと、その時機は今日過ぎたのです。実はたった今過ぎました。あなた方の気のつかないうちに、過ぎました。私は何事も因縁《いんねん》ずくと諦《あき》らめるよりほかに仕方がありません。しかしその事実から割り出される結果だけは是非共あなた方に聴いていただきたいのです」
 お秀はまた津田からお延の方に眼を移した。二人はお秀のいわゆる結果なるものについて、判然《はっきり》した観念がなかった。したがってそれを聴く好奇心があった。だから黙っていた。
「結果は簡単です」とお秀が云った。「結果は一口で云えるほど簡単です。しかし多分あなた方には解らないでしょう。あなた方はけっして他《ひと》の親切を受ける事のできない人だという意味に、多分御自分じゃ気がついていらっしゃらないでしょうから。こう云っても、あなた方にはまだ通じないかも知れないから、もう一遍繰り返します。自分だけの事しか考えられないあなた方は、人間として他の親切に応ずる資格を失なっていらっしゃるというのが私の意味なのです。つまり他の好意に感謝する事のできない人間に切り下げられているという事なのです。あなた方はそれでたくさんだと思っていらっしゃるかも知れません。どこにも不足はないと考えておいでなのかも分りません。しかし私から見ると、それはあなた方自身にとってとんでもない不幸になるのです。人間らしく嬉《うれ》しがる能力を天《てん》から奪われたと同様に見えるのです。兄さん、あなたは私の出したこのお金は欲しいとおっしゃるのでしょう。しかし私のこのお金を出す親切は不用だとおっしゃるのでしょう。私から見ればそれがまるで逆です。人間としてまるで逆なのです。だから大変な不幸なのです。そうして兄さんはその不幸に気がついていらっしゃらないのです。嫂《ねえ》さんはまた私の持って来たこのお金を兄さんが貰わなければいいと思っていらっしゃるんです。さっきから貰わせまい貰わせまいとしていらっしゃるんです。つまりこのお金を断ることによって、併《あわ》せて私の親切をも排斥しようとなさるのです。そうしてそれが嫂さんには大変なお得意になるのです。嫂さんも逆です。嫂さんは妹の実意を素直《すなお》に受けるために感じられる好い心持が、今のお得意よりも何層倍人間として愉快だか、まるで御存じない方《かた》なのです」
 お延は黙っていられなくなった。しかしお秀はお延よりなお黙っていられなかった。彼女を遮《さえ》ぎろうとするお延の出鼻を抑《おさ》えつけるような熱した語気で、自分の云いたい事だけ云ってしまわなければ気がすまなかった。

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