2008年11月6日木曜日

百五十七

「君のような敏感者から見たら、僕ごとき鈍物《どんぶつ》は、あらゆる点で軽蔑《けいべつ》に値《あたい》しているかも知れない。僕もそれは承知している、軽蔑されても仕方がないと思っている。けれども僕には僕でまた相当の云草《いいぐさ》があるんだ。僕の鈍《どん》は必ずしも天賦《てんぷ》の能力に原因しているとは限らない。僕に時を与えよだ、僕に金を与えよだ。しかる後、僕がどんな人間になって君らの前に出現するかを見よだ」
 この時小林の頭には酒がもう少し廻っていた。笑談とも真面目とも片のつかない彼の気※[#「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64]《きえん》には、わざと酔の力を藉《か》ろうとする欝散《うっさん》の傾《かたむ》きが見えて来た。津田は相手の口にする言葉の価値を正面から首肯《うけが》うべく余儀なくされた上に、多少彼の歩き方につき合う必要を見出《みいだ》した。
「そりゃ君のいう通りだ。だから僕は君に同情しているんだ。君だってそのくらいの事は心得ていてくれるだろう。でなければ、こうやって、わざわざ会食までして君の朝鮮行《ちょうせんいき》を送る訳がないからね」
「ありがとう」
「いや嘘《うそ》じゃないよ。現にこの間もお延にその訳をよく云って聴《き》かせたくらいだもの」
 胡散臭《うさんくさ》いなという眼が小林の眉《まゆ》の下で輝やいた。
「へええ。本当《ほんと》かい。あの細君の前で僕を弁護してくれるなんて、君にもまだ昔の親切が少しは残ってると見えるね。しかしそりゃ……。細君は何と云ったね」
 津田は黙って懐《ふところ》へ手を入れた。小林はその所作《しょさ》を眺めながら、わざとそれを止《や》めさせるように追加した。
「ははあ。弁護の必要があったんだな。どうも変だと思ったら」
 津田は懐へ入れた手を、元の通り外へ出した。「お延の返事はここにある」といって、綺麗《きれい》に持って来た金を彼に渡すつもりでいた彼は躊躇《ちゅうちょ》した。その代り話頭《わとう》を前へ押し戻した。
「やはり人間は境遇次第だね」
「僕は余裕次第だというつもりだ」
 津田は逆《さか》らわなかった。
「そうさ余裕次第とも云えるね」
「僕は生れてから今日《きょう》までぎりぎり決着の生活をして来たんだ。まるで余裕というものを知らず生きて来た僕が、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》わがまま三昧に育った人とどう違うと君は思う」
 津田は薄笑いをした。小林は真面目《まじめ》であった。
「考えるまでもなくここにいるじゃないか。君と僕さ。二人を見較《みくら》べればすぐ解るだろう、余裕と切迫で代表された生活の結果は」
 津田は心の中《うち》でその幾分を点頭《うなず》いた。けれども今さらそんな不平を聴いたって仕方がないと思っているところへ後が来た。
「それでどうだ。僕は始終《しじゅう》君に軽蔑《けいべつ》される、君ばかりじゃない、君の細君からも、誰からも軽蔑される。――いや待ちたまえまだいう事があるんだ。――それは事実さ、君も承知、僕も承知の事実さ。すべて先刻《さっき》云った通りさ。だが君にも君の細君にもまだ解らない事がここに一つあるんだ。もちろん今さらそれを君に話したってお互いの位地《いち》が変る訳でもないんだから仕方がないようなものの、これから朝鮮へ行けば、僕はもう生きて再び君に会う折がないかも知れないから……」
 小林はここまで来て少し昂奮《こうふん》したような気色《けしき》を見せたが、すぐその後から「いや僕の事だから、行って見ると朝鮮も案外なので、厭《いや》になってまたすぐ帰って来ないとも限らないが」と正直なところを付け加えたので、津田は思わず笑い出してしまった。小林自身もいったん頓挫《とんざ》してからまた出直した。
「まあ未来の生活上君の参考にならないとも限らないから聴きたまえ。実を云うと、君が僕を軽蔑している通りに、僕も君を軽蔑しているんだ」
「そりゃ解ってるよ」
「いや解らない。軽蔑《けいべつ》の結果はあるいは解ってるかも知れないが、軽蔑の意味は君にも君の細君にもまだ通じていないよ。だから君の今夕《こんゆう》の好意に対して、僕はまた留別《りゅうべつ》のために、それを説明して行こうてんだ。どうだい」
「よかろう」
「よくないたって、僕のような一文《いちもん》なしじゃほかに何も置いて行くものがないんだから仕方がなかろう」
「だからいいよ」
「黙って聴くかい。聴くなら云うがね。僕は今君の御馳走《ごちそう》になって、こうしてぱくぱく食ってる仏蘭西《フランス》料理も、この間の晩君を御招待申して叱られたあの汚ならしい酒場《バー》の酒も、どっちも無差別に旨《うま》いくらい味覚の発達しない男なんだ。そこを君は軽蔑するだろう。しかるに僕はかえってそこを自慢にして、軽蔑する君を逆に軽蔑しているんだ。いいかね、その意味が君に解ったかね。考えて見たまえ、君と僕がこの点においてどっちが窮屈で、どっちが自由だか。どっちが幸福で、どっちが束縛を余計感じているか。どっちが太平でどっちが動揺しているか。僕から見ると、君の腰は始終《しじゅう》ぐらついてるよ。度胸が坐《すわ》ってないよ。厭《いや》なものをどこまでも避けたがって、自分の好きなものをむやみに追《おっ》かけたがってるよ。そりゃなぜだ。なぜでもない、なまじいに自由が利《き》くためさ。贅沢《ぜいたく》をいう余地があるからさ。僕のように窮地に突き落されて、どうでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」
 津田はてんから相手を見縊《みくび》っていた。けれども事実を認めない訳には行かなかった。小林はたしかに彼よりずうずうしく出来上っていた。

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