2008年11月6日木曜日

百五十八

 しかし小林の説法にはまだ後があった。津田の様子を見澄ました彼は突然思いがけない所へ舞い戻って来た。それは会見の最初ちょっと二人の間に点綴《てんてつ》されながら、前後の勢《いきおい》ですぐどこかへ流されてしまった問題にほかならなかった。
「僕の意味はもう君に通じている。しかし君はまだなるほどという心持になれないようだ。矛盾だね。僕はその訳を知ってるよ。第一に相手が身分も地位も財産も一定の職業もない僕だという事が、聡明《そうめい》な君を煩《わずら》わしているんだ。もしこれが吉川夫人か誰かの口から出るなら、それがもっとずっとつまらない説でも、君は襟《えり》を正して聴くに違ないんだ。いや僕の僻《ひがみ》でも何でもない、争うべからざる事実だよ。けれども君考えなくっちゃいけないぜ。僕だからこれだけの事が云えるんだという事を。先生だって奥さんだって、そこへ行くと駄目だという事も心得ておきたまえ。なぜだ? なぜでもないよ。いくら先生が貧乏したって、僕だけの経験は甞《な》めていないんだからね。いわんや先生以上に楽をして生きて来た彼輩《かのはい》においてをやだ」
 彼輩とは誰の事だか津田にもよく解らなかった。彼はただ腹の中で、おおかた吉川夫人だの岡本だのを指《さ》すのだろうと思ったぎりであった。実際小林は相手にそんな質問をかけさせる余地を与えないで、さっさと先へ行った。
「第二にはだね。君の目下の境遇が、今僕の云ったような助言《じょごん》――だか忠告だか、または単なる知識の供給だか、それは何でも構わないが、とにかくそんなものに君の注意を向ける必要を感じさせないのだ。頭では解る、しかし胸では納得《なっとく》しない、これが現在の君なんだ。つまり君と僕とはそれだけ懸絶しているんだから仕方がないと跳《は》ねつけられればそれまでだが、そこに君の注意を払わせたいのが、実は僕の目的だ、いいかね。人間の境遇もしくは位地《いち》の懸絶といったところで大したものじゃないよ。本式に云えば十人が十人ながらほぼ同じ経験を、違った形式で繰り返しているんだ。それをもっと判然《はっきり》云うとね、僕は僕で、僕に最も切実な眼でそれを見るし、君はまた君で、君に最も適当な眼でそれを見る、まあそのくらいの違《ちがい》だろうじゃないか。だからさ、順境にあるものがちょっと面喰《めんくら》うか、迷児《まご》つくか、蹴爪《けつま》ずくかすると、そらすぐ眼の球の色が変って来るんだ。しかしいくら眼の球の色が変ったって、急に眼の位置を変える訳には行かないだろう。つまり君に一朝《いっちょう》事があったとすると、君は僕のこの助言をきっと思い出さなければならなくなるというだけの事さ」
「じゃよく気をつけて忘れないようにしておくよ」
「うん忘れずにいたまえ、必ず思い当る事が出て来るから」
「よろしい。心得たよ」
「ところがいくら心得たって駄目《だめ》なんだからおかしいや」
 小林はこう云って急に笑い出した。津田にはその意味が解らなかった。小林は訊《き》かれない先に説明した。
「その時ひょっと気がつくとするぜ、いいかね。そうしたらその時の君が、やっという掛声《かけごえ》と共に、早変りができるかい。早変りをしてこの僕になれるかい」
「そいつは解らないよ」
「解らなかない、解ってるよ。なれないにきまってるんだ。憚《はばか》りながらここまで来るには相当の修業が要《い》るんだからね。いかに痴鈍《ちどん》な僕といえども、現在の自分に対してはこれで血《ち》の代《しろ》を払ってるんだ」
 津田は小林の得意が癪《しゃく》に障《さわ》った。此奴《こいつ》が狗《いぬ》のような毒血を払ってはたして何物を掴《つか》んでいる? こう思った彼はわざと軽蔑《けいべつ》の色を面《おもて》に現わして訊《き》いて見た。
「それじゃ何のためにそんな話を僕にして聴かせるんだ。たとい僕が覚えていたって、いざという場合の役にゃ立たないじゃないか」
「役にゃ立つまいよ。しかし聴かないよりましじゃないか」
「聴かない方がましなくらいだ」
 小林は嬉《うれ》しそうに身体《からだ》を椅子《いす》の背に靠《もた》せかけてまた笑い出した。
「そこだ。そう来るところがこっちの思う壺《つぼ》なんだ」
「何をいうんだ」
「何も云やしない、ただ事実を云うのさ。しかし説明だけはしてやろう。今に君がそこへ追いつめられて、どうする事もできなくなった時に、僕の言葉を思い出すんだ。思い出すけれども、ちっとも言葉通りに実行はできないんだ。これならなまじいあんな事を聴いておかない方がよかったという気になるんだ」
 津田は厭《いや》な顔をした。
「馬鹿、そうすりゃどこがどうするんだ」
「どうしもしないさ。つまり君の軽蔑《けいべつ》に対する僕の復讐《ふくしゅう》がその時始めて実現されるというだけさ」
 津田は言葉を改めた。
「それほど君は僕に敵意をもってるのか」
「どうして、どうして、敵意どころか、好意精一杯というところだ。けれども君の僕を軽蔑しているのはいつまで行っても事実だろう。僕がその裏を指摘して、こっちから見るとその君にもまた軽蔑すべき点があると注意しても、君は乙《おつ》に高くとまって平気でいるじゃないか。つまり口じゃ駄目だ、実戦で来いという事になるんだから、僕の方でもやむをえずそこまで行って勝負を決しようというだけの話だあね」
「そうか、解った。――もうそれぎりかい、君のいう事は」
「いやどうして。これからいよいよ本論に入ろうというんだ」
 津田は一気に洋盃《コップ》を唇《くちびる》へあてがって、ぐっと麦酒《ビール》を飲み干した小林の様子を、少し呆《あき》れながら眺めた。

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