小林は眼を上げてちょっと入口の方を見たが、すぐその眼を新聞の上に落してしまった。津田は仕方なしに無言のまま、彼の坐《すわ》っている食卓《テーブル》の傍《そば》まで近寄って行ってこっちから声をかけた。
「失敬。少し遅くなった。よっぽど待たしたかね」
小林はようやく新聞を畳んだ。
「君時計をもってるだろう」
津田はわざと時計を出さなかった。小林は振り返って正面の壁の上に掛っている大きな柱時計を見た。針は指定の時間より四十分ほど先へ出ていた。
「実は僕も今来たばかりのところなんだ」
二人は向い合って席についた。周囲には二組ばかりの客がいるだけなので、そうしてその二組は双方ともに相当の扮装《みなり》をした婦人づれなので、室内は存外静かであった。ことに一間ほど隔《へだ》てて、二人の横に置かれた瓦斯煖炉《ガスストーブ》の火の色が、白いものの目立つ清楚《せいそ》な室《へや》の空気に、恰好《かっこう》な温《ぬく》もりを与えた。
津田の心には、変な対照が描き出された。この間の晩小林のお蔭《かげ》で無理に引っ張り込まれた怪しげな酒場《バー》の光景がありありと彼の眼に浮んだ。その時の相手を今度は自分の方でここへ案内したという事が、彼には一種の意味で得意であった。
「どうだね、ここの宅《うち》は。ちょっと綺麗《きれい》で心持が好いじゃないか」
小林は気がついたように四辺《ぐるり》を見廻した。
「うん。ここには探偵はいないようだね」
「その代り美くしい人がいるだろう」
小林は急に大きな声を出した。
「ありゃみんな芸者なんか君」
ちょっときまりの悪い思いをさせられた津田は叱るように云った。
「馬鹿云うな」
「いや何とも限らないからね。どこにどんなものがいるか分らない世の中だから」
津田はますます声を低くした。
「だって芸者はあんな服装《なり》をしやしないよ」
「そうか。君がそう云うなら確《たしか》だろう。僕のような田舎《いなか》ものには第一その区別が分らないんだから仕方がないよ。何でも綺麗な着物さえ着ていればすぐ芸者だと思っちまうんだからね」
「相変らず皮肉《ひにく》るな」
津田は少し悪い気色《きしょく》を外へ出した。小林は平気であった。
「いや皮肉るんじゃないよ。実際僕は貧乏の結果そっちの方の眼がまだ開《あ》いていないんだ。ただ正直にそう思うだけなんだ」
「そんならそれでいいさ」
「よくなくっても仕方がない訳だがね。しかし事実どうだろう君」
「何が」
「事実当世にいわゆるレデーなるものと芸者との間に、それほど区別があるのかね」
津田は空《そら》っ惚《とぼ》ける事の得意なこの相手の前に、真面目《まじめ》な返事を与える子供らしさを超越して見せなければならなかった。同時に何とかして、ゴツンと喰《くら》わしてやりたいような気もした。けれども彼は遠慮した。というよりも、ゴツンとやるだけの言葉が口へ出て来なかった。
「笑談《じょうだん》じゃない」
「本当に笑談《じょうだん》じゃない」と云った小林はひょいと眼を上げて津田の顔を見た。津田はふと気がついた。しかし相手に何か考えがあるんだなと悟った彼は、あまりに怜俐《りこう》過ぎた。彼には澄ましてそこを通り抜けるだけの腹がなかった。それでいて当らず障《さわ》らず話を傍《わき》へ流すくらいの技巧は心得ていた。彼は小林に捕《つら》まらなければならなかった。彼は云った。
「どうだ君ここの料理は」
「ここの料理もどこの料理もたいてい似たもんだね。僕のような味覚の発達しないものには」
「不味《まず》いかい」
「不味かない、旨《うま》いよ」
「そりゃ好い案配《あんばい》だ。亭主が自分でクッキングをやるんだから、ほかよりゃ少しはましかも知れない」
「亭主がいくら腕を見せたって、僕のような口に合っちゃ敵《かな》わないよ。泣くだけだあね」
「だけど旨けりゃそれでいいんだ」
「うん旨けりゃそれでいい訳だ。しかしその旨さが十銭均一の一品《いっぴん》料理と同《おん》なじ事だと云って聞かせたら亭主も泣くだろうじゃないか」
津田は苦笑するよりほかに仕方がなかった。小林は一人でしゃべった。
「いったい今の僕にゃ、仏蘭西《フランス》料理だから旨いの、英吉利《イギリス》料理だから不味いのって、そんな通《つう》をふり廻す余裕なんかまるでないんだ。ただ口へ入るから旨いだけの事なんだ」
「だってそれじゃなぜ旨いんだか、理由《わけ》が解《わか》らなくなるじゃないか」
「解り切ってるよ。ただ飢《ひも》じいから旨いのさ。その他に理窟《りくつ》も糸瓜《へちま》もあるもんかね」
津田はまた黙らせられた。しかし二人の間に続く無言が重く胸に応《こた》えるようになった時、彼はやむをえずまた口を開こうとして、たちまち小林のために機先を制せられた。
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